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【短編小説】No.1 アマガエルの恋物語

 アマガエルは決意しました。それはほんの軽い気持ちだったのかもしれません。好奇心とも言えます。ともかく本能に逆らってみようと決めたのです。
 そんなこと、今まで考えたこともありませんでした。日照りがなければ、きっとこの先も考えることはなかったでしょう。
 そうです。水が無くなってしまったのです。池はひび割れていて、空は何故だかオレンジ色に見えます。息苦しさが何日も続き、仲間は何人も死にました。そしていよいよ長老は言ったのです。

「この土地を離れよう」 

 もうずっと昔から住んでいたのです。離れるなんてとてもできないと、皆は反対して頑なでしたが、とうとう息苦しさに耐えられなくなりました。
 水があると心地が良いことは知っていました。いつでも足は無意識に水場に向かいます。それでも、無くなってしまうと、こんなにも苦しくなるなんて、全く思いもよらなかったのです。
 長老の後に続いて一人、また一人と、この土地を去って行きます。

 アマガエルは決意しました。決意というほど明確なものではありませんでしたが、ともかく、たった一人でこの土地に残ると決めたのです。



 息は苦しくてもう限界。食べ物もありません。頭ではとっくにサイレンが鳴っています。それでも心が言うのです。従えと。
 とてもとても険しい時間でした。痩せ細って体はシワシワに乾燥し、冬眠の時期すらわからないほどでした。今の自分に必要はものは何なのか。水なのか食べ物なのか、それとも懐かしい仲間たちなのか、それすらも見失ってしまいました。

 ある日、木の枝を見つけました。とても頑丈そうな枝でした。アマガエルはそれを掴み、一生懸命に立ちあがろうとしました。けれどもとっくに足は動かなくなっていて、少しも起き上がることが出来ません。
 悔しくて、苦しくて、やり切れなくて、木の枝を地面に叩きつけました。涙など出るはずもない目を押さえつけ、何度も何度も叩きつけました。
 しばらくすると、ひび割れていた地面が削られて、少し色が違ってきているように見えました。昔見ていた色に似ています。理由なんてないけれど、夢中で叩き続けました。そのうちに、叩くのではなく、前後に動かした方がよく削れることも発見します。
 どれくらいそうしていたのでしょうか。とっくに夜の出番が来ています。アマガエルの握っている木の枝が、硬いものに当たったかと思うと、突然地面がゴリゴリモコモコと動き始めました。 

「きゃーーーーー」

 驚くのはアマガエルの仕事のはずなのに、仕事を奪われたアマガエルはきょとんとしていました。
「あなた誰?」
可愛らしい声でした。女の子でしょうか。アマガエルは何故だかホッとして、瞬く間に眠りの中へ落ちていきます。

 季節がぐるぐると巡り、やっと、雨が降りました。水を吸った体はみるみるうちに回復し、アマガエルは跳ね起きました。
「きゃ!雨だ!」
 可愛らしい声が聞こえて、ハッとそちらに振り向きましたが、そこには誰も居ません。
「起きたの?雨だから私は外に出られないけど、起きてるの?」
 また、声が聞こえます。そういえば、眠る前に夢中で削っていた地面の中から、その声は聞こえました。なぜだか懐かしくて心地よい声でした。
「たった今起きたよ。雨が降ったからね。君は誰だい?」
アマガエルは地面に向かって言いました。
「雨が降ったら目が覚めるの?おかしいわね。私はこの地面の下に住んでるの。倒れたあなたが心配で、何度も様子を見に来ていたのよ」
地面から可愛らしい声が返ってきます。
「僕は水が好きなんだ。君は嫌いなのか?」
「嫌いよ。だって、濡れたら寒いじゃない。寒くて寒くてとても辛いもの」
「僕を心配してくれていたの?」
「だって目の前で突然倒れるんだもの。心配で毎日毎日、声を掛けたわ」
ずっと一人だったアマガエルは、嬉しくて嬉しくて、夢中で話しました。
-日照りのこと、仲間と別れたこと、飢えに苦しんだこと、立ち上がれなくなったこと。
 可愛らしい声は、口を挟まずに聞いてくれました。それが嬉しくて、どんどん話しました。
「いけない。もう帰らなくちゃ」
可愛らしい声が言いました。アマガエルはとても寂しくなりました。それでも、すぐに嬉しくなりました。明日も会う約束をしてくれたのです。
 可愛らしい声と別れたアマガエルは、もっと元気になりました。これまでの苦しみが幻だったかのように、元気に元気に辺りを跳ね回りました。
 住み家を探し、食べ物を探し、そして何より、追い追われてしがみついていた“生”
をやめ、生きることを始めたのです。
 アマガエルと可愛らしい声は、たくさんのことを話しました。可愛らしい声は皆の除け者で、いつも面倒な仕事ばかり押しつけられると嘆いています。アマガエルと初めて出会った日も、地中の土を地上に掻き出すという、誰もやりたがらない仕事を押しつけられた、と言っていました。彼女たちは地中で暮らしていて、地上の光や空気が嫌いだそうです。
「でもだからこそあなたと会えた」
そう言ってくれたときの喜びを、アマガエルは何度も何度も噛みしめています。
 実はまだ、お互いに顔を知りません。あれからずっと雨が降り続いていて、可愛らしい声は、地上に顔を出すことができません。アマガエルも土に潜れません。そんなことをしたらきっと、皮膚が塞がれて窒息してしまうでしょう。
 それでも、十分でした。何もかも失ったはずだったのです。ほんのわずかな希望が、アマガエルの生活をみるみるうちに変えていきました。
 いつか可愛らしい声と共に住めるように、工夫もしました。たくさんの木の枝と石と、蓮の葉を集めました。石で土台を作り、木の枝で枠を作り、最後に蓮の葉で覆いました。地面にも蓮の葉を敷き詰めました。水をはじく蓮の葉が、水に弱い彼女を守ってくれると考えたのです。
 食べ物のことだって考えました。彼女は芋や木の根を食べるそうです。アマガエルの好みとはあまりにかけ離れていて、初めはどうしたらいいのかわかりませんでしたが、地上にはみ出た木の根を集めることにしました。彼女に食べてもらうと、とても美味しいと、言ってくれました。
 雨が上がったら、彼女をここに連れてきて、プロポーズをするつもりでした。
 そしていよいよ雨が上がると、アマガエルはいつもより多めに体を濡らし、いつもの場所へ向かいました。けれども彼女はいつまで経っても現れません。そういう日が、何日も何日も続きました。それでもアマガエルは待ち続けました。

 季節が変わろうとしたその時、ようやく彼女が現れました。待ち侘びたその声が、地上へ顔を出したとき、アマガエルは驚きを隠せませんでした。
 まさかネズミだとは思ってもいなかったのです。そして彼女は、アマガエルが知るどのネズミよりも不細工なネズミでした。
 ハダカデバネズミという種類のネズミだそうです。体毛がなく、歯は大きく飛び出ています。目は皮膚で塞がれていて、見えないそうです。地中で生活していると目が必要なくなると、彼女は言っていました。
 アマガエルは戸惑いました。それもそのはず。今まで恋をした相手は、同じ種族であるアマガエルしかいなかったのですから。きっと勝手に、アマガエルのような見た目を想像していたのでしょう。
 ハダカデバネズミは戸惑いませんでした。だって元々目が見えないのです。彼女には、見た目も何も関係ありませんでした。アマガエルにやっと触れられることだけが、楽しみだったのです。
 そうです。アマガエルは可愛らしい声のハダカデバネズミに約束をしていたのです。
「雨が上がったら君の手を引いて、素敵なところへ連れて行く」と。
 彼女は手を差し出しました。この瞬間を、ずっと待っていたのです。アマガエルは戸惑いながらも、ハダカデバネズミの手に、自分の手を重ねました。
「あ!濡れてる!」
 可愛らしい声のハダカデバネズミは思わず手を引っ込めました。濡れるのが嫌いな彼女は、アマガエルの湿った体に驚いてしまったのです。二人の間に、初めてぎこちない沈黙が流れました。
 結局、二人で住むはずの家を見せることもなく、その日はそのまま別れ、そして数日が過ぎました。
 あれほど気に入っていた家がなんとなくかすんで見え、他の寝床を探しました。木の根も集める気になりません。そんな日が、数日、数週間と続きました。
 その間、ジリジリと太陽が焼き付け、アマガエルの水分は奪われるばかりでした。息苦しさが蘇ります。そしてふと、思い出したのです。
 渇きと飢えに苦しんでいたときの、ハダカデバネズミの可愛らしいあの声を。苦しいときに思い出すのは、やっぱり彼女しか居ませんでした。
 そしてアマガエルは走ります。あの場所へ。出会ったあの場所へ。
 息が苦しくて、何度も足が崩れ落ちました。それでも走ります。するとあの場所に可愛らしい声のハダカデバネズミが立っていたのです。外の空気が嫌いなはずなのに、立っていたのです。
 そんな彼女の手に、蓮の葉を巻き付け、その手を掴み、アマガエルは再び走ります。石を積み木の枝を並べ、蓮の葉を巻き付けて造った、二人の家に向かって走ります。
 やっとたどり着いたとき、可愛らしい声のハダカデバネズミは思わず泣いてしまいました。本当に、嬉しかったのです。これまでで一番、嬉しかったのです。
 しかし、彼女は打ち明けなければいけません。もう二度と、会えないことを。
 ハダカデバネズミの世界には社会があります。女王ネズミが産んだ子供たちを守らなければなりません。餌を探し、体を温め、守らなければなりません。今までは、それだけで良かったのですが、とうとう選ばれてしまったのです。兵隊に。
 天敵、それは主にヘビですが、天敵が住み家に侵入してきたら立ち塞がって皆を守る。それが兵隊の仕事です。戦うのではありません。ただ、食べられるのです。だから可愛らしい声のハダカデバネズミにも、そのお役目が回ってきてしまったのです。
 アマガエルは言いました。そんな役目は放り出して、僕と一緒になれば良い、と。もう見た目なんか、どうでも良かったのです。
 可愛らしい声のハダカデバネズミは嬉しくて嬉しくて。だからこそ、役目を果たすと決めました。矛盾しているからこそ、決めたのです。
 アマガエルはとても悲しくなりました。またひとりぼっちになってしまうことよりも、可愛らしい声のハダカデバネズミが犠牲になることが悲しくてたまりませんでした。
 それでも可愛らしい声のハダカデバネズミの手を握り、出会ったあの場所まで送り届けました。
 何よりも、彼女が選んだ道を応援したかったのです。唇を噛みしめた可愛らしい声のハダカデバネズミを見送ると、急に夜に襲われたように目の前が真っ暗になりました。
 数日後、彼女は仕事を全うしました。彼女の最期の祈りは、アマガエルに届いたでしょうか?
 アマガエルは、“可愛らしい声のハダカデバネズミのように役目を果たさなければ”と頑張ったり、思い出して急に泣きだしたり、ぼんやりしたり、揺れ動きながらも、共に過ごした日々とは全く違う色の世界を、一生懸命生きています。
 そのうちにきっと、新しい何かを見つけていくのでしょう。可愛らしい声のハダカデバネズミと共に歩める、何かを。


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