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[物語詩]「破戒僧」

春も終いとおぼしき強い日差しに焦がされ
黄土色の砂の道を西に向かう一人の僧がいた

彼方に揺らめく蜃気楼のその先には
亀茲という国がありそこには仏法の高僧が居るという

天竺で数多の経典を修めたその高僧に教えを乞うため
彼は三月前に都長安を出立し西域への旅に出た

大宛に向かう隊商に加えてもらい楼蘭を後にして五日
衣に染みた汗は時を待たずに乾き切りよって襟足などは厚紙様に硬くなった
そもそも日較差の大きいこの地方には季節などなく
春といえども日が昇れば夏となり日が沈めば冬となる
春は日の出後の数刻にのみ存し秋は日暮れ前後の数刻に現れる

さて極めて少ない食糧と必要最低限の水しか摂らず
黙々と地を見据えて行者のように歩む彼の僧であるが
彼の頭の中には一人の女性が棲んでいる

その女は或る時は処女のように恥じらい
また或る時は淫靡に柔肌を晒して彼を惑わした

女の顔や姿態は初めて見る西域の風景の中に頻繁に紛れ込み
眠りに就こうと目を瞑った折などには影のみならず話しかけてきさえし
彼の視覚野と言語野及びそれに連なる思念を占領するに至った

彼の女に心当たりが無い訳ではない
いやよく知る女である
その女は彼が修練する寺の近くに店を構える八百屋の女房である

女が寺に菜を納めに来た折に彼が典座をしていたことからお互いに見知ることとなった
女は歳の頃四十に近いが切れ長な一重瞼と口元の黒子が妙に色香を感じさせた

厨で幾度か顔を合わせるうちに彼は年上のその女に淡い恋情を抱くようになった
また女も彼に好意を抱いたらしく菜の籠に時々菓子や果物を忍ばせ彼に渡した

或る日の夕刻のこと菜が不足したため彼は女の店を訪れ白菜を購った
そして主人が居ないことをいいことに暫く女と話し込んだ

その時のことであるが女は旅の話にかこつけ冗談めかして連れて逃げてほしいと口にした
突然のことであり戯れとも取れたので彼は「近いうちに」と悪戯っぽく答えたが
女の真意を測りかねその後にどのような距離感で接するべきか思い悩んだ

そうこうして一年が過ぎた頃に彼は典座の仕事から外れたが
三月に一度の頻度で外向きの用がありその都度女の店に顔を出した
更に一年後彼は選ばれて西域へ派遣されることとなった

出立を十日後に控えた彼は寺務のついでに女の店に立ち寄り
久し振りに会った女に西域に行くことを告げた

女が驚いた様子で何年先に戻ってくるかを問うたので
八年から九年先になると答えると女はひどく動揺したようであった

彼が女の耳元で戯言のように「待っていますか」と訊ねると
女は彼の顔を見て「待ちます」と真顔で答えたので
彼も生真面目な顔になり幾分どぎまぎしながら「わかりました」と囁いた
帰り際に女は「帰国が早まるよう毎夜西の空に向かって願をかけます」と彼に伝えた

さて旅の支度を整えながらも彼の心は女の許から離れられずにいた
出立の朝に寺の高位の僧から亀茲国王に宛てた願文を託されても
気持は西域へと向かわずなお長安に残ったままであった

西に向かい日一日と都から遠ざかれば諦めもつくであろうと彼は考えていたが
歩みを進めるに従い彼の女に対する慕情は募っていった

彼は僧であるが女を知らぬわけではない
そんな彼がその女性に囚われるのは女が無二の不思議な魅力を持っているからである
それは彼にしか解らぬものであり嗜好に近いものでもある

蘭州を過ぎ武威に着く頃にはその女性の影が彼の頭の中に棲みつくようになり
頭の中の女性は実体を超えて艶めかしく肉感的になり一人歩きするようになった
それが自らの願望によるものなのか彼の女の願掛けによるものなのかは定かではなかった

西域に遣わされると決まった時
仏法を極めるために亀茲で五年にわたり経や律を修め
その後に未知の経典を求めて天竺にまで足を延ばそうと彼は考えた
何をするにも器用な彼のことであるから帰国後には訳僧としての高い地位が約束されている
しかしこのような狂おしい情念を抱えていては教義を解することや修行に打ち込むことなどできそうにないと彼は思った

地平線から立ち上がる空はどこまでも青く澄み渡り既に仏国土に達していることを感じさせた
中原に仏法を広め独善的な民を教化し安寧の内に浄き国を現出させるという寺派の発願を成し遂げるには経の正確な解釈と翻訳が必要でありそのために彼は西域に遣わされた
中原に未達の経典も亀茲にはあると言われており彼の双肩には寺派のみならず国の仏教界の期待も圧し掛かっていた

道すがら彼は衆生を導く役を担っていくべきか一介の女性の願いを叶える役を担うべきかで揺れ動いていた
二つ同時に叶えたいと彼は思ったが
長い年月を教理の探究に費やしていては女の望みを叶えられる可能性が低くなる
かといって女の願いを聞き入れて今ここから長安に引き返したならば仏法からの破門は免れぬであろう

西の地平線に日が沈み茜や紫の色階が鮮やかに空を染める頃
隊商一行は南に開けた小高い丘を今宵の泊り場所に定め煮炊きを始めた

粗末な食事を済ませ彼は星空を見上げていた
夜の帳が雫のように星々を天に撒き散らし北斗星にも手が届くばかりと思われた
そして東の空に顔を出した賑やかな夏の星々が天頂に懸からんとする頃まで彼は夜空を飽くことなく見ていた
沙漠特有の夜の乾いた冷気に思考が研ぎ澄まされていく
闇の粒子が凝集し内省を始める夜半に至り彼の意思は固まった
「明朝、長安に引き返そう」
思いを馳せる東の方角には漆黒の大地が広がっていた

この後
彼は還俗し彼の女を奪って益州へ落ち延びた
元々才覚を持つ男であり成都辺に住み着き商いで身を立て女を妻とし共に暮らしたという
なお 女は冀州の生まれであったが家が貧しく人身売買に出され彼の八百屋に買い取られ女房になったとのことであった
さて
三宝の奴となる道を捨てた彼が年上の彼の女の奴となったということは言うまでもない

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