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[詩]「繭の中の哲学者」

(蚕蛾の独白)狭いけれども外の世界を完全に遮断できて 真の自分を守れる仄暗い棲み処 繭の中は居心地がいいのだ
 
蛾となり繭から這い出て だだっ広い空間を飛び回ることには気後れを感じるし 食料を求めてギャンブルのような探索をしたり 異性の気を引くために涙ぐましい努力をするのは億劫だ
何より天敵に出くわす危険性を慮ればこのままここにいて考えを巡らせている方が賢明だろう そのため私は蛹でいることを選択した
 
親から託されたバトンを次の世代に渡すという生物の根源的な意思を無視した私は 存在価値のない異端児として周囲から蔑まれ きっと落伍者の烙印を押されていることだろう
しかし価値観が斜めに四十五度傾いた私は そのことを甘受できる
過日 青々として旨そうな桑の葉の上で他の蚕と鉢合わせすれば 私は争うことなどせず 決まってその場を譲り別の葉に移った
弱さは強さであることを知る私は過ぎる程に謙譲でもあるのだ
 
そして私はただただ思索する
自らの存在理由や私を取り巻くこの宇宙の原理について
長い眠りの中でさえも輪郭のない形而上の事柄に係る夢を見る
成熟を意図して止めた体には成長ホルモンが痛みを伴う自傷的攻撃を仕掛けて来て厄介だが いずれ私は蛹のままで遠くない将来に干からび息絶えてしまうのだろう それまで私は静かに思考する
 
(後日譚)さて彼の蚕蛾は程なく他の繭玉と一緒に製糸工場に運び込まれ そこで蒸され煮られてその繭は上等な絹織物に形を変えた
一方蒸されて絶命した蛹は釣り餌となり海の藻屑と消えていった
なお付け足しておくが蚕蛾は家畜化されて完全に野生を失った生物と言われ 翅を持つ成虫になっても飛翔能力はなく 蜜や樹液を吸う吸収管が退化して無いため餌に有り付くこともできないという

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