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モナリザに背を向ける(岸辺露伴 ルーブルへ行く)

面白かったです、テーマはリアリティをリアルとする罪、なのかな。

今回の作品に「ルーブルへ行く」をチョイスし、映像化したということ自体にメッセージ性がある気がします。(ちなみに全然原作未読です、ジョジョもほぼ知らん)

全然ネタバレありで話すのですが、鏡は自分を映すのに対して、黒い絵は過去を映す。過去は自分の罪が、自身の友人や祖先として具現化される。そして最悪の場合、死に至る。黒い絵を見た人の中に、オリジナルで贋作を描き、入れ替えた人物もおり、死に至らせた一例だ。

岸辺露伴は、リアルを鑑賞することで初めてリアリティを表現できる、という立場の過激派というのも効いている。(冒頭で能力説明込みでシーンによる説明が挟まっていたので、映画を楽しむのに必要な材料は配られています)

岸辺露伴は黒い絵を気にするキッカケは古い記憶から。子供時代、祖母(だったかな)の民泊で、漫画を描くことに専念していた。露伴は、泊まっている女性(藤倉)をふとモデルにして描く。細かくは省略するが、その女性から、黒い絵に関する話を聞いたのだ。
黒色はあらゆる光を吸収したものだ、という説明と、あの妙に引き込まれる魅力、どこか「黒い」演技で吸い込まれた感じがした、あれは凄いや。

先に言うと、黒い絵の制作者は藤倉の夫(200年単位の過去の話なので上記の藤倉は多分霊体)。藤倉の美しい髪をどうにか表現しようと黒の顔料を求めていた。妻が神聖な樹木から出る黒い樹液を見つけ、夫に使用して貰い、それから取り憑かれたように絵を描いた。夫は罰当たりということもあり、親族から追われ、黒い絵を描いて息絶える。

リアルを表現するために、リアルをそのまま使用してしまった罪なのだと自分は捉えた。リアリティ(表現)にリアルをそのまま持ち込むのは、作者の表現したいことのみをリアルから抽出する行為ではなくなる、ということか。

時は戻って現代。露伴も黒い絵を見る(この前に3人見て悲惨な目に合っているのに見ちゃうらしさ)。過去の罪は、黒い絵の作者として襲ってくる。こちらも後で明かされるが、藤倉の元の性は岸辺だった。黒い絵を追い求めた後悔として襲ってくる。死人相手に能力は使えなかったが、藤倉が止め、すべてを忘れてくれと頼む。露伴は自身に能力を使い、忘れる。
んですけど、書いたインクを擦り、記憶を戻す。危険なことしかしないなこいつ。

黒い絵に関する一連の件が済んだ露伴は、祖母の民泊付近(と思われる)に赴き、藤倉を尋ねる。(黒い絵で現れたのはあくまで幻覚である)そこで前述の過去の話が語られる。
黒い絵によって連鎖する後悔を止めて欲しかった、と供述する藤倉。露伴はこの一件も「忘れない」と誓う。露伴にとってこれもリアリティのためのリアルなのだろうか。

この露伴の返事の後に藤倉が微笑む?のですが、明らかにモナリザを意識しているんですよね。リアリティとリアルを取り上げた作品内でこれはなかなかチャレンジングだなと思った。でもこれはリアルではなく、リアリティに当たるからこそ許される行為なのかな、と考える。

この作品が映像化されるにあたって、本物のルーブル美術館を使用している。また、ルーブルを起用するため、フランス人を起用したりと、かなり”リアル”に拘っているなと感じる描写が節々にある。岸辺露伴がリアルに拘っているからこそだと感じる。(嘘から出た真?)

藤倉がモナリザを意識しても、リアルでなくリアリティだと納得できるのは、(ここに理由を記載)。
言語化できません、すみません。リアルの材料を大量に使用していることと、それを許可されるだけの作品群だから、とか考えたけど、それだけでは理由として不足な気がする。

余談ですが最近、教育に関する科目を受けました。教育の話でAIやアートの話が出てきます。教育にとってAIは、解釈を狭める道具。一方のアートは、思い通りにならないものとの出会いで、正解が存在しない。「わかった」は、「わかった気分」になって、学ぶことを止めてしまう。


露伴がモナリザを前にして、模写をするシーンがある。 その際、モナリザをわざわざ背にして、筆を取るのだ。
この文章を書いているうちに理解して来たが、露伴が言わせるには、見ながら描くのはただのリアルなのだろう。
モナリザを見て露伴の感じた感覚、色、音、重さ、雰囲気、その全てを模写することこそが、リアリティの表現となるのだろう。


  • おまけ:泉京香

泉京香は黒い絵を見ても無事だったので、それについて少し。
泉京香が、黒い絵で幻覚を見た案内役を連れ出して助ける。案内役が見たのは、母親として助けられなかった自分の子の幻覚。それを励ますために、自分の父親の写真も取り出す、フランスでの写真だ。
泉京香の父親は、自分が5歳の頃に亡くなっていた。その写真に今回の取材での写真を重ね、その子もそばにいたかったのかも、と励ます。
過去を罪や後悔にしない強さの抵抗力なのかな、と…

  • おまけ:上映後にすぐ経たなければいけないのか

今この文章描いてるの、映画館後に直行したカフェでMac開いてやってるんですが(意識たか)、上映後にすぐ席を立たずに、しばらく居られれば、その場で新鮮なままある程度書けるのにな〜と思います。
絵もそうです、見て終わりじゃなくて、なんか深く考えたフリするじゃないですか。なんかもったいない気がします。まあ大量生産/消費時代にそぐわないんでしょうね。
情報系らしくないこと言ったな。

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