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ダサくてもひどくても。

ずーんと深く、胸に刺さるnoteの一文に出合った。
それがこれだ。

つまり、ダサくてもひどくてもとにかく書き続けて現状におけるベストで書き終えて納品して晒されてdisられても言い訳せず反省し反省はするが折れず凹んでも戻ってくる。そして懲りずに次の原稿を納品する。いつかはもっと上手に書けるはずと信じて書く。書くを続ける。

それができた人たちが「プロになる人」で、できなかった人たちが「ならない人、なれない人」だ、と。これは「書き手」の話だけれど、それだけに留まらない普遍的な指摘だろう。

自らの提供するサービスに対してお金をもらっていることがプロであることの証ならば、プロであることは完全無欠であることと同義ではない。発展途上でもプロだ。いやむしろ、発展途上だからこそプロだ。
だってプロは、常に自らをアップデートしていくものだから。

前職で新人のとき、営業として外部の顧客と接することへの葛藤があった。こんなへなちょこの新人が、プロを名乗ってサービスを提供してよいものかと。向こうはプロだと思ってお金を払っているのに、その対価がこれでよいのかと。
でもどんな熟練のプロも最初はへなちょこの新人だった。だから今のわたしがへなちょこであることそれ自体に罪はないはずだ。そう自分に言い聞かせながら、ジタバタともがいていた。

そしてそれは、間違っていなかったのだと確信できた。

ダサくてもひどくても。
それでも目の前の仕事に取り組み続けること。やめないこと。
へなちょこなりのベストのパフォーマンスを、逃げずに出すこと。
そりゃあへなちょこぶりを晒せば、文句の一つや二つも言われよう。間違いを指摘され、バカにもされよう(実際にされていないとしても、されたように感じることもあろう)。凹む。
それでも、戻ってくる。一朝一夕でへなちょこを脱することはできないけれど、取り組み続ける。挑戦し続ける。
いつかは、もっと上手にできるはずだと固く信じて。

それでいいのだ。
それが正しいスタンスなのだ。

今だって、わたしはへなちょこだ。
凹んだときは、自分はうまくやれないのだと悔しくなる。でも、そこからまた戻ってきて戦い続けることができるならば、きっといつか、その自分を超えられるということ。


本当は、失敗なんかしたくない。凹むのもこりごりだ。
だけど、わたしはここで戦い続けたいから、失敗もする。また凹む。それはここでプロであるために引き受けなければならない代償なのだ。

そっか。なんだか強くなれそうだ。

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