手を繋ぐ、についてわたしが確信を得たこと

例によってコンビニで食料調達をした、帰り道のこと。曲がり角を左に折れようとしたとき、その人影は視界に飛び込んできた。小学2、3年生くらいの小柄な女の子と、その父っぽい人。

父娘はわたしの進行方向をゆったりとした足取りで歩いていて、わたしはせかせかと追い抜くのも野暮だなと少しだけ速度を落とした。そしてなぜだか、二人の姿にどうしようもなく目を奪われたのだった。

左側を歩く女の子がなんとかと言って、父がそれに短い言葉を返す。すると女の子が、「なんでよー」と楽しそうに父を見上げて笑う。父の左手はぶらんと降ろされている。女の子の両手は、スキップやおしゃべりに合わせてせわしなく動いた。前を歩く二人の間には手のひら1枚分くらいの小さな隙間があるのだけれど、わたしは妙な確信を得たのだ。今にも何気なく手を繋ぐことができるような、そんな距離感なんだなって。女の子は父を警戒していないし、父から愛情を向けられているだろうかと不安を感じてもいない。いつでも手を取れるし、それは拒絶されない。そういう安心感が、二人を結んでいるんだろうなって。

いや、実際のところはわからない。駆け寄って聞いてみたわけじゃないし、彼らがどこでどんな生活をしているのかを見たわけじゃないし、なんなら父娘の関係ですらないかもしれない。すべてはわたしの憶測の域を出ない。わたしはただ、その光景に自分の記憶を重ねていた。

週末に家族でショッピングセンターに出かけるとき、父や母と手を繋いで歩いた。親にしてみれば勝手にどこかへ行かないようにという単純なリスクヘッジだったかもしれないけれど(おかげでほとんど迷子になった記憶はない)、油分の少ない母の手や、夏は冷たく冬は温かい高機能な父の手の肌触りが懐かしく思い出される。

手を繋ぐことは、とても親密な行為だ。見ず知らずの人といきなり手を繋ぐなんてできないし、親しい友人であったとしてもめったなことでは手を繋ぎはしないだろう。親子だって、時が経てば手が繋げなくなる。だからもう、すっかりその感覚を忘れてしまっていた。少し前を歩く父の手を取る、あの感じ。父は気づいてちらりとこちらを見るだろう。そして、力強く握り返してくれるだろう。わたしはそれを知っていた。知っているということ、それがわたしを温かく包み込んでくれていた。絶対に拒絶されない、絶対に受け入れてくれる。それらを疑うことすら脳裏を掠めないような、その絶対的な信頼感こそがわたしをすこやかに育ててくれた。

わたしの手の中に蘇ったこの感覚は、きっとわたしを導いてくれる。またしても妙な確信を得てしまった。

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