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辻村深月が好きだ。

辻村深月が好きだ。

はじめての出会いは、『冷たい校舎の時は止まる』。中学3年の頃だったと思う。

どういう出会い方をしたのかは、正直言って覚えていない。当時は毎月本を1冊注文するという習慣があって、本はネットで探していた。なぜ辻村深月に辿りついたのかはわからない。たまたまAmazonでお勧めされたのかもしれないが、それまでの読書歴からしてアルゴリズムがわたしを辻村深月に繋いでくれるような心当たりもまるでない。

それでも確かなことは、それからわたしがどっぷりハマったことだ。毎月、辻村深月を注文した。その世界観に、ずぶずぶと沈んでいった。

だから今、辻村深月の小説たちのタイトルと表紙を目にすると、中学生・高校生だったあの頃のわたしの小さな世界が蘇ってくる。
『子どもたちは夜と遊ぶ』『凍りのくじら』『ぼくのメジャースプーン』『ロードムービー』『スロウハイツの神様』『名前探しの放課後』…
それはなんだかこそばゆいような、頬が緩むような、あったかい記憶だ。

辻村深月の何に惹かれたのか、よくわからなかった。繊細で、目の前の人やモノに誠実であろうと葛藤する主人公たちとか、すさまじい頭の回転で主人公の窮地を救ってくれるキャラクターとか、物語の最後に全部ひっくり返して読者を騙してくれる小気味よさとか、そういうものが好きだった。

大学生になっても、新刊が出ればすぐ買った。
『水底フェスタ』『オーダーメイド殺人クラブ』『ツナグ』『本日は大安なり』『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ』…
懐かしいあの頃の記憶を手繰りよせるかのように、未練がましく。

社会人になって、気がついたことがあった。『家族シアター』を読み終えたときだった。あ、辻村深月はずっと「家族」を描いていたんだな、と。タイトルにわざわざ掲げてくれるまで気がつかなかったのは、ずいぶん間抜けなことだけれど、たしかに辻村深月は「家族」を見つめていたのだった。
「家族」というものが、「なんとなく居心地のよいもの」としてわたしたちの間を通り過ぎていくのを、辻村深月はそっと捕まえて、「よく見てごらんよ」って手のひらを差し出してくる。親と子、きょうだい、おじいちゃんとわたし。親密な関係性のなかにたしかにある軋みや不協和音から、目を逸らさないのが辻村深月だった。その居心地の悪さを、承認してくれるのが辻村深月だった。

そこに惹かれたのだった。わたしが「かぞくマニア」を自覚するよりも前から、辻村深月はわたしに「家族」の曖昧さを提示し続けてきた。「家族」のおもしろさを描き続けてきた。いま、こうしてわたしが「家族」を語れるのは、辻村深月が教えてくれたからだ。語っていいんだよって。面白いでしょって。

だから今も追っかけている。
『盲目的な恋と友情』『かがみの孤城』『噛み合わない会話と、ある過去について』『傲慢と善良』…



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