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家族依存社会

いま、読んでいる本、
『児童養護施設と社会的排除–家族依存社会の臨界–』。

副題にある、「家族依存社会の臨界」というフレーズを見て、ぞくっとした。終章にも、「家族依存社会からの脱却をめざして」とある。ぞくぞくっとした。

児童福祉を論じる本は数多あるが、これは社会学の本なのだ。社会学者が、児童養護施設で暮らす子どもたちの社会的背景として、家族の基盤がなければ人生が詰んでしまう現代日本社会の構造の問題を指摘する、そういう本なのだ。

家族マニアが舌舐めずりをするような、そういう本なのだ。

12人の児童養護施設経験者たちへのインタビュー調査に基づいてまとめられている。彼らがどんな家族のもとに生まれ育ったのか、何を理由として児童養護施設への入所に至ったのか、入所後の施設での生活はどんなものだったのか、学校生活はどうか、どのように進路決定をしたのか、どのように就業しているのか。施設で暮らしたことをどのように捉えているのか…––

調査の実施が2005年から2007年で、その時点で18歳から31歳だった人たちだから、状況もかなり変わっている。10年、20年の時を経てよい変化があったことに希望を感じる一方で、色褪せない課題が残っていることがもどかしくもある。生々しい現実をしっかり突きつけてくれる、そういう本でもある。

そして、そう。家族依存社会の臨界の話だ。

児童養護施設で暮らす子どもたちは、「家族とともに暮らす」という、「あたりまえ」の生活から、何らかの理由によって遠ざけられた子どもたちである。学校に行けば、その「あたりまえ」の生活を変わらず営んでいる同年代の子どもたちを目の当たりにするし、テレビをつければ、街を歩けば、誰もが「あたりまえ」をあたりまえに生きていることを前提としてコミュニケーションが成り立っていることを否が応でも思い知らされる。それが「あたりまえ」というものだ。

でも、その「あたりまえ」が本当にあたりまえであるわけではないことは、彼ら自身の状況を見れば明らかである。あたりまえじゃない「あたりまえ」を、そのまま「あたりまえ」としておいていいのか?

よいとするのが、「社会的排除」だ。
世の中の大半の人たちが「あたりまえ」をあたりまえとして共有して、例外については脇に置いてコミュニケーションを成立させる。そうすれば、よけいなことを考えなくていいから楽だし、手っ取り早い。手っ取り早いから、みんながそれを安易に使って、いつしか例外を脇に置いたままだということも忘れてしまう。忘れられた人たちは、手っ取り早くて楽チンな世界から、そうして排除されていく。

世の中の大半の人たちが、家族とともに暮らすことが「あたりまえ」であると認識して、そうでない人たちはかわいそうな例外として脇に置いてしまえば、社会が家族という私的な枠組みによって支えられているという現実をも忘れてしまう。食事を作って、後片付けをして、掃除をして、洗濯をして、子どもの世話をして。そして無数の名もなき家事をして。家族という枠組みが機能していればこそ、会社や学校や地域で、社会的な活動ができている。家族に頼りっきりな社会であることにすっかり無自覚でいられるのは、それはあなたが「あたりまえ」で括った世界のなかに生きているからだ。

児童養護施設をテーマにしたこの本が、「家族依存社会の臨界」を唱えたことの意義は、「虐待した親を支援してまた家族で暮らせるようにしよう」とか「施設養育には限界があるから、里親をふやして家庭養育を広めよう」というような「家族とともに暮らす」ことありきの視点から一歩離れて、「家族じゃなくてもいいじゃん」とおおらかに言えるような社会を提言した点にあるといえよう。

わたしが密かに抱いている理想の社会は、そういう社会だ。本のなかに、「家族という桎梏(しっこく)」という表現が出てくるのだが、家族自体が呪縛ともなりうるような現実がたしかにある。それは些細な「例外」などではない。

家族はよきものである、そうでなければならない––
そんな「あたりまえ」の呪いから解放された未来は、もっと自由でやさしいと思う。



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