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仕事と家庭に関するごくありふれた葛藤と覚悟

まだ覚悟がないと、先に言ったのはわたしだ。

覚悟ができていないのならば、まだそれを選択するべきではないと、そう言われてムッとした。身勝手な怒りだと認める。でもやっぱり、ムッとしている。

子どもをもつということは、どうしてこんなにも難しくて面倒なことになってしまったのだろう。子どもを産み育てたいという願いは、そんなにも欲張りで、罪深いものなのだろうか。
わたしは自分が何か悪いことをしたような、何かを責められているような、そんな気がして今とても悲しい。そうか、悲しいのだ。

悪気はないのだとわかる。いやむしろ、わたしが後悔しなくて済むように、ベストな選択ができるように、善意で言ってくれているのだ。だからそれを責めるのは正しくない。責めたいわけでもない。ただもどかしさがじわじわと身体を蝕んでいる。

わたしは覚悟を決められていないのだと思う。それは子をもつことの大変さとか、そういう漠然とした不安に向き合えていないということじゃない。
失う覚悟。子どもを産んだら第一線では働けないよとか、ここに戻って来られる保証はないよとか、これまで関係を築いてきた仕事場の子どもたちと望まぬ別れ方をしなくちゃならないかもしれないよとか、そういうことを割り切って受け入れていく覚悟ができていない。というか、できない。
何年かしたら覚悟が決まるようなものではなくて、未来永劫わたしにその覚悟はできない。なぜならそれは、この仕事に誠実でありたいというわたしの願いとは真逆のものだからだ。

この仕事と目の前の子どもたちに対して誠実であるということは、それぞれとの関係をわたしが大事に大事に積み重ねていくということであって、それを自ら断ち切るなんてもってのほかなのだ。そんなことは不誠実の極みで、わたしはしょうがないよねと割り切ることができない。そんなバカバカしい覚悟を求められているのだとしたら、わたしは覚悟なんてしてたまるかと声を大にして言いたい。

散々大人に振り回されて、たくさん傷ついて、その傷を自力で癒そうとまた苦しんで、たどり着いたこの場所で今もいろんなものを抱えながら毎日を生きているこの子たちに、もう一発殴るような真似がわたしにできるだろうか。
わたしが家族を築いて、子を産み育てて親になることは、それ自体が悪なのだろうか。
そんなに嫌なら諦めて、周りにも決して望むなと圧をかけるべきだろうか。
誠実さを手放し、悪者になることを引き受ける覚悟を決められないならば、望んではいけないのだろうか。

たくさんの名もなき先人たちが、理不尽との戦いに敗れ、涙を飲んできただろう。仕事と家庭を天秤にかける世界に支配されて、どちらかを諦めてきただろう。
その後を追うだけでは、結局何も変わらない。悔しがって、次の世代に同じ悔しさを押しつけて、そうして理不尽を再生産するばかりだ。わたしはそれに抗いたい。抗って、勝ち取りたい。理不尽を駆逐して、道を拓きたい。そうしなければ納得できない。それをやりきる覚悟なら、もうずっと前からしている。

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