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料理の効用

料理は得意なほうじゃない。

実家にいたころは食べるばかりでキッチンに立つことはなかったし、一人暮らしを始めた当初は料理本を見ていくつか試してみたけれど、すぐ面倒になってやめた。

社会人1年目の自炊は、ほうれん草のおひたしときんぴらごぼうしか作らなかった。自分のためにつくる料理は、ただ面倒なだけな作業だった。

だけど今、無心になって夕食を作る時間が結構好きだ。
一汁三菜の献立を決めて、ザクザク切り物をやっつけて、18時の「いただきます」に間に合うように3口コンロを駆使する。
献立を決めるのにも、作るのにも、クックパッドに頼りきり。いちいち次の工程を確認しながらなので、手際も悪い。誰かに見られながらだととても居心地が悪くなる。

でも、家庭料理に求められる工程の一つひとつはそんなに難しいものではなくて、いくつかのパターンに収斂される。切る、茹でる、炒める、焼く、揚げる。和える、まぜる、かける。分量と、タイミングと、順番と。

注意深く指示に従い、完成形に向けて集中力を持続させる。相手はものも言わず、動きもしない。数時間の短期決戦なのである。だからこそ、無心になれる。

もちろん周りも見ていなくちゃいけないし、電話も鳴るし、話しかけられもする(お手伝いさせてと要求されもする)。完全に自分一人の世界で無になれるわけじゃないけれど、キッチンという舞台を我がものにして次々と技を繰り出し、着々となにものかが作り上げられていくさまは、おもしろい。

コントローラブルなものを扱う快感、なのかもしれない。
この世はアンコントローラブル、わたし一人の手に負えないものばかり。そんななかで、食材はわたしに歯向かったりしないし、逃げ出しもしない。時々油がハネることはあっても、うっかり焦がしちゃうことがあっても、それらはある程度想定内だ。目の前のタスクを自分の努力だけでこなせて、それなりの成果物を得られるということは、わたしを安心させてくれる。かりそめの優越感に浸らせてくれる。わたしのエネルギーを回復させてくれる。

その前提には、食べてくれる人たちがいて、わたしが作ることに価値が与えられていることがある。だからやっぱり、自分のためには作れない。という、借りぐらし中の買い食い生活の言い訳である。

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