見出し画像

わたしたちは演技をやめられない

あー早く寝なくちゃ、明日は出勤前に洗濯回して買い物も行きたい。勉強もちょっとやりたい。早く寝なくちゃ。気が急いて、勢いに任せてがっしゃんがっしゃん爪を切っていたら、案の定深爪してしまった。不覚。
指の腹が直接キーボードにあたる柔らかな感覚は嫌いじゃないけれど、今日はちょっとやりすぎた。心許なさが勝る。


演技をする、ことについて考えてみる。

感情労働は演技だと、ホックシールドは言った。
それも、「これは演技じゃありません。あなたに向けているのはホンモノの感情ですよ」と表明しながらする演技だ。それだけじゃない。「わたしは今、本当にこう感じているんだ」と自分自身にも言い聞かせながらする演技だ。
演技に先立つのは、「こうあらねばならない」という規範だ。雇い主が、クライエントが、職業が、社会が、わたし自身が、「このような感情表出が適切である」という規範を用意していて、それを受け入れて、そうして演技をする。規範を抜きにして、ただ目の前の相手との関係性だけで自発的に湧き出した感情は、なるほどホンモノと呼んで差し支えないだろう。でも実際は、そんなふうにシンプルじゃない。たくさんの思惑やら打算やら大人の都合やら遠慮やらが、わたしをがんじがらめにして言うのだ。「こうあらねばならない」と。

だからわたしは正しくあろうとする。そのために、演技をする。
ホンモノだったら「もう知らんわ!」と投げ出したかもしれないような場面でも、その衝動をぐっと堪えて落ち着いたトーンでもう一度声をかけてみたりする。正論で圧倒的に論破してやりたくなる気持ちを封じ込めて、「そう思ったんだね」と受け入れてみたりする。
わたしはあなたを見捨てない。見捨てたいなんて微塵も思わない。その意志を、毅然として表明する。それはニセモノの意志を伝達するためじゃない。ホンモノの意志を、誤解されないためにわかりやすく伝達するための演技であり、感情管理である(と、わたしは信じている)。

最終的に伝達したい内容に偽りはない。しかし、それを正しく伝達するために演技を用いる。しかし。演技をすること自体が誠実でないように思えて、それが心苦しい。そして、時々とても疲れる。

感情労働者が直面する最大の苦しみのひとつが、これだ。相手に対して誠実であろうと思えば思うほど、演技という偽りを介した正しさと、あるがままの自己との乖離というジレンマに陥る。抜け出そうとすれば正しさを手放すことになるし、耐えれば燃え尽きて自己を見失ってしまう。
劇的な、根本的な解決策はない。だからほどほどに折り合いをつけながら、わたしたちは時々冗談を言い合いながら、フォローをし合いながらやり過ごす。

感情労働というのは実に厄介なものだ。

深爪しながら、昨日からせっせと取り組んでいる社会学のテキストをめくる。大変お恥ずかしながら、社会学部を出ているくせに社会学史が全然頭に入っていなくて、今まさに気合いを入れて学び直しているところである。そこで、スティグマで有名なゴフマンの「ドラマトゥルギー(Dramaturgie)の社会学」を知った。

ゴフマンは、人間同士のやりとり(相互行為)を、演劇をたとえに持ち出して説明している。すなわち、わたしたちは演技する行為者(パフォーマー)で、それを観る他者(オーディエンス)がいる。オーディエンスに対して、パフォーマーが自分をよく見せようと振る舞うのは印象操作。パフォーマーの「らしくない」ふるまい(貴婦人のオナラとか)をオーディエンスが見て見ぬ振りして整合性を保とうとするのが儀礼的無関心。

そう、ゴフマンは人間の相互行為を演技と捉えた。
わたしたちは最初っから最後まで、演技をしているのかもしれない。職業的要請とかを抜きにしてもなお、わたしたちは演技をやめられない。他者と関わり合うことそれ自体が、すでに演技なのだ。寝ても覚めても舞台の上。

わたしばっかりが演技をしているわけじゃない。
わたしが誠意を尽くそうとして必死になっているその相手も、彼らの舞台で演技をし続けている。演技をするって悪いことじゃない。演技をすることは、他者と関わり続けようという意志そのものだ。


ほんとうは、前職の新人研修のときに「爪は手のひらから隠れるくらい短く切りなさい」というマナーの押しつけをされて「そんなん深爪になるやんか!」と腹が立った話を書くつもりだったのだけれど、まあいいや。ちなみに絶賛深爪中の今なお爪は隠れきれていないので、忠実に従ったら流血ものだ。「こうあらねばならない」に付き合うのはほとほどに、ね…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?