『記憶』に残り『記録』されたがるひと

中高年あたりになってから家系図作りとか自分史とか、地元の歴史や勤めた会社の成り立ちとかを調べ始めるひとがおるが、あれ、ひまと金を持て余した挙句にたどり着く自分探しという趣味やと思いよったけど。

人生の折り返しを迎えて自分自身のリタイア、もしくは寿命というものが見えてきて。
自分というものはなんやったんやろうと振り返り、寄らば大樹の陰というか、より大きな流れの中に自分を位置づけたくなるんやろうな。

自分はおおきな物語に登場して、少なからず影響を及ぼし、そのページ、項目を飾って消えていくのだ。
という実感がほしいんやろう。
叙勲もまた然り。

勲章。
ウチの祖父は叙勲されたがあれは『あなたはただの一般市民という名もなきモブではなかった。このように記録されるほど活躍したんですよ』と国の認証と承認欲求を華々しく満たすシステムなんやな。

ちょっといろいろあってひと財産築いた祖父はいろんな口車に乗せられて本を出したり投機したりいらんもん買わされたりいろいろやらかして、それでも銀行さんが『生きとるうちに管理しとかな大変なことになる』と言いにくるくらいの財産を残して死んだが、その金品は山師のおじがすってんてんに使い尽くした挙句、一族あげての大トラブルに発展した。おい、正七位が泣くぞw

それと自分の位置づけの他に『記憶』に残り、末々まで『記録』されたいんだろう。
ひとは他人の記憶から失われた時、本当の意味での死を迎えるのだと言われる。

定年後に蕎麦にハマる男性をよく見かけたが、他に趣味が見つからないゆえの蕎麦なのか、「あのひとの打つ蕎麦はほんとうにおいしかった」という記憶を誰かに植え付けたいゆえの蕎麦なのか。

若かりし頃に人文社会科学を勉強せんかったひとがやらかしまくる比率が多い気がする。
ささやかに写経ならまだしも、いきなり自分史出版して在庫の山を抱えてやけくそで孫に配り歩かせたり。
気持ちはわかるがなぜ若いうちに免疫をこさえとかなんだのか。いや、免疫をこさえる余裕がなかったのだ。わからんでもない。

それをこじらせると今の世の中陰謀論に傾倒したりウヨったりパヨったり変なデモに参加したりなんとか運動団体創設メンバーに名を連ねたりするんだろうな。

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