養育里親の歩み(その1-2)

子育てがピンチになった風景を古川柳から眺めて見ると、

「乳貰い、袖に突っ張る 鰹節」・・有名な句です。かみさんと離婚したのか、逃げられたのか、死別したのか、とにかく父親は赤子のお乳を確保しなければなりません。お乳の出る人を探して頼み込むしか方法がありません。お礼に用意した鰹節が袖から突っ張っています。この親子は生活を続けられるでしょうか。父親が再婚して継母との暮らす道、知人を頼って里子の出すこともあったでしょう。

捨て子という選択も考えられますが、江戸時代も安定期になると、藩や幕府の方針として、罰を受けることになります。目立つ存在になっているこの親子から、急に赤子がいなくなると世間の目はごまかせません。それでも、こんな川柳があります。

「子を二人捨てて、おやおや とんだこと」
と詠み手はあきれ返っています。いつの世も、いろいろな人生が繰り返されています。

 岡山藩の記録*に、寅三郎がなさぬ仲の女性との間に女児が生まれ、すぐに大店の家の前に捨ててしまいます。当時は捨て子を発見した者が世話するルールがあったようで、番所や町方が子の養育を確保する責務を負うことになっていました。仕方なしにその大店で養育を続けることになります。

2か月ほどして、与力の探索で捨てた親の存在が判明し、捨てた寅三郎は「長屋入り(人足場)」の処罰を受けることになります。この赤子の事件を祖父が知ることとなり、総年寄りに申し出て引き取ることで決着しています。更に、母親に住まいを提供していた女性も「お𠮟り込み」の罰を受けることになります。母親の処罰が記録にないのが不思議です。

 この子は祖父のところに辿り着いていますが、多くは養育者を転々としたことでしょう。子どもの引き受け先として里親があったと思われます。

 *江戸の捨て子たち 沢山美香子著(歴史ライブラリー)

青葉紘宇
執筆者プロフィール

> 里親制度のあゆみ(その1)

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