養育里親の歩み(その1)

はじめに  
里親制度は血の繋がらない子どもと親子関係を結ぶことと理解されている。親子関係を結ばない養育活動をする分野が一方にあり、養育里親と言われている。現在の里親制度は、養子縁組里親、親族里親、縁組を目的としない養育里親に大別されるが、養育里親について関係者も勘違いをしてる場合も多い。

古くから養子、継子、里子などの言葉が伝わっているように、血縁によらない親子関係の形成が一つの家族形態として社会に根付いていた。当時の医療が未発達であった時代には大人も子どもも死別する機会も多く、社会は必要に迫られての家族再編成せざるを得ない環境にあった。この家族再構築は跡継ぎを得ることであったり、生活を維持していくためであっただろうが、子どもにとっては選択の許されないもので、自分の人生に大きな影響を与えるものであったに違いない。新たに家族を再編成するに当たって哀れを誘う話がある一方、新たな親子関係と新しい人生が形成さていったことは想像に難くはない。

比較参考もために、継子は親の再婚で生じる関係なので、実親のどちらかがおり血のつながりが一部残っている。養子は全くの他人を養育する場合もあれば、親族の子どもを貰う場合があり、いずれにしても生涯暮らしを共にする関係となる。一方、養育里親は他人の子どもを育てるだけの子育て方式である。このような子育て方式を理解するのに、過去にどうであったか、似た事例はあったのだろうかを検証していきたい。

1)江戸時代
江戸期にあっては子守り、丁稚奉公、行儀見習い奉公など子どもを住み込みさせている商家や武家の存在がある。幼いときに子どもを預かり労働力として奉公として暮らし丸ごと世話をすることになる。子どもはそこで多くのことを他人から学ぶことになる。

また、勘当者や居候を預かる大工の親方などの存在も巷で多く認められている。いずれの関係は、平成16年まで存在した職親の原型と言えるだろう。他の人に子どもを預かるのを「係り人(かかりゅうど)」として川柳に詠まれている。今ではその実態が掴めないが、川柳の内容から察して中高生位の年齢層のようである。今も昔も思春期の扱いに困っていたのだろう。

養育里親の原型となるものとしては、捨て子や浮浪児への対応がある。当時は地域の名主や町方が養育者を探こととされており、名乗り出た養育者に報奨金や扶持米も支給される場合もあった。生類憐れみの令に代表されるように幕府の方針もあり、全国各地で藩の方針に沿って同様な取り組みが広くなされていた。赤子は母乳が不可欠なので、

若い夫婦を探し出しことになる。赤子から育てた子どもを奉公に出すときは、実子と同じ感覚になっていただろうから別れは辛かったことだろう。
捨て子などが養子としての貰い手に辿り着けた場合は幸運であったが、一部の子どもを人身売買集団などに引き取らせることもあった。斡旋を業とする人もいたようで、福祉には何時も光と影が付きまとってしまう。


青葉紘宇

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