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琴月と冷光の時代 はじめに

室崎琴月と大井冷光は、大正時代に児童文化運動の最前線で活躍した人です。琴月は東京音楽学校を卒業した作曲家。冷光は時事新報社の児童雑誌編集者。同じ富山県出身の2人は力を合わせ、大正7年6月、『少女』音楽大会を帝国劇場で開いて大成功を収めました。『赤い鳥』や『金の船』などの雑誌が創刊される少し前のことで、大衆児童雑誌が先導した「子どもの歌ブーム」を象徴する出来事でした。

それから3年後、いわゆる童謡運動がピークを迎えたとされる大正10年、冷光は子どもたちを前に講演している最中に急死し、琴月は代表曲となる童謡《夕日》を発表しました。

このWEBサイトは、これまで注目されてこなかった2人の事績に光を当てるものです。

詳しく知りたい人のために

♪ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む……という歌い出しで始まる童謡《夕日》は大正10年11月22日、東京本郷で開かれた中央音楽会演奏会で初めて発表された。中央音楽会を主宰する室崎琴月(むろざき・きんげつ)は30歳の作曲家だった。東京音楽学校に在学中から唱歌の作曲を続けてきた琴月にとって、《夕日》は初めて童謡を冠した歌である。

いわゆる童謡運動が大正8年ごろから大きな盛り上がりをみせていた。『赤い鳥』『金の船』など芸術的と言われる児童雑誌が相次いで創刊され、東京音楽学校の先輩にあたる本居長世・中山晋平・弘田龍太郎、同じ大正6年卒組の成田為三・草川信などが、詩人たちと組んで《かなりや》《靴が鳴る》《叱られて》《揺籠のうた》《七つの子》などを次々に発表していた。琴月が童謡に参入するのはすこし遅すぎるくらいだった。

のちに子どもの歌について語るとき、琴月には忘れられない人物がいた。児童雑誌の編集者、大井冷光(おおい・れいこう)である。《夕日》が発表された演奏会の翌日、帝国劇場で大井冷光追悼お伽講演会が開かれたというのは何という奇遇であろうか。琴月は冷光と4年前に知り合い、意気投合して互いが主催する音楽会に出演するなど交流を深めていたのだが、悲劇は突然おとずれた。

大正10年3月5日、大井冷光は神奈川県の逗子小学校で講演している最中、大勢の児童が見ている目の前で、心臓発作を起こし倒れた。35歳の花形編集者の死は、全国の少年少女読者はもちろん、師にあたる巌谷小波や久留島武彦ら児童文学の関係者に大きな衝撃と深い悲しみを与えた。

琴月は、逗子で冷光が投函した絵葉書を手にした直後に、その訃報に接した。驚きは計り知れないものだったろう。しかし琴月自身は回想記に事実を書き留めているだけで当時の心情を書き残してはいない。

一般に童謡運動は唱歌教育への批判から生まれたとされる。当時は、唱歌とは狭い意味で教材用の歌をいい、童謡は芸術味豊かな自由な歌謡を指した。新と旧、官と民、文語体と口語体、国鉄と私鉄……。後世の研究者たちが示してきた唱歌と童謡の対立軸の表現はいろいろある。[1]琴月と冷光はそれをどのように考えていたのだろうか。これが本稿の関心事のひとつである。

童謡運動をリードしたとされる鈴木三重吉の『赤い鳥』巻頭の標榜語(モットー)にはこうある。

「現在世界に流行している子供の読物の最も多くは、その俗悪な表紙が多面的に象徴している如く、種々の意味に於いて、いかにも下劣極まるものである。こんなものが子供の神経を侵害しつつあるということは、単に思考するだけでも怖ろしい。(中略)「赤い鳥」は世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純性を保全開発するために、現代第一流の芸術家の真摯なる努力を集め……(以下略)」

鈴木三重吉「赤鳥の標榜語モットー」『赤い鳥』創刊号(大正7年7月)巻頭

下劣極まるとまで指摘された大衆児童雑誌の一つが、冷光の編集する時事新報社の『少年』『少女』であった。《夕日》の作詞者である葛原しげるは、博文館の『少年世界』『少女世界』の元編集者であり、冷光とも交友関係があった。
 こう書くと琴月も冷光も葛原も、古くてつまらない唱歌の陣営にいたのかということになるが、これから詳しくみていくように物事はそんなに単純でない。

琴月は音楽学校を経営するかたわら童謡音楽園という組織を運営したり絵雑誌『コドモノクニ』の童謡に作曲したりした。それと同じ時期に、初等教育唱歌研究会の雑誌にも数多く曲を提供している。また、批評好きの冷光が「赤い鳥」の標榜語へ反論した記述はまだ見つかっていない。誤解を恐れずに代弁すれば、2人の考えは「唱歌と童謡との間に垣根をつくることは意味がない」「大切なのは子どものために子どもが歌える子どもの歌をつくること」だったのではないかと思う。

唱歌ではなく童謡として誕生した《夕日》は、今も歌い継がれる子どもの歌の名曲である。2006年に文化庁と日本PTA全国協議会が「日本の歌百選」に選定している。《夕焼小焼》《赤とんぼ》《あの町この町》など夕方の情景を歌う童謡にもの悲しさを感じさせる曲が多いなかで、《夕日》には弾むような明るさがある。振付がつけられて遊戯の歌として全国に広まり、長く愛されてきた。1923年(大正12年)の関東大震災では、被災者を元気づけた曲の一つとされている。自ら被災者となった詩人の西条八十は「瓦礫の向こうに沈む夕日を見て市民たちが歌った名曲である」という旨の書簡を琴月に送ったという。

冷光が編集していた『少年』『少女』は、当時日本一の新聞と謳う時事新報社が発行していた月刊誌である。先行誌である博文館の『少年世界』『少女世界』を追い、実業之日本社『日本少年』『少女の友』などとも激しく競り合って、大正時代の大衆雑誌ブームを牽引した。

琴月も冷光も富山県の出身で、明治43年にそれぞれ上京し、大正時代前半に子どもの文化を向上させる活動の最前線に立った。しかし、2人とも一地方の先人として記録されることはあっても、近代日本音楽史や児童文学史の中で名前がしっかりと刻まれてきたとはいいがたい。その理由はいくつか考えられる。

琴月の場合は、私立音楽学校としては一時期3番手となった中央音楽学校を東京谷中で経営していながら、戦災で学校と自宅を失った。郷里高岡に帰り、事実上、東京での音楽学校再建をあきらめざるを得なかった。喜寿のとき23年ぶりに中央音楽学院の看板を東京谷中の自宅に掲げたのは執念と言えなくもないが、かつて童謡作曲家の元老株とまで言われた室崎琴月の存在は中央楽壇では次第に忘れられていった。

冷光の場合も悲運としかいいようがない。亡くなった半年後に帝劇で追悼お伽講演会が行われたあとは、しだいに人々の記憶が薄れていった。『時事新報』が昭和に入って廃刊し、会社そのものがなくなって社史すら編まれることはなかった。時が流れて『少年』『少女』は稀少雑誌となり、『少年世界』や『少女の友』の陰に隠れて研究対象からも漏れていった。

2人の足跡を見えにくくさせたのはやはり童謡運動の華やかさである。『赤い鳥』や『金の船』といった芸術的とされる新興児童雑誌に後世の人々の注目が集まり、冷光らの大衆児童雑誌は見向きもされなくなった。そもそも芸術と大衆の境目はあいまいで大衆雑誌の方が社会的な影響力があった[2]はずなのだが、『赤い鳥』や『金の船』はあまりにも魅力的だったということであろう。

琴月と冷光、2人の交流が濃密なものだったかというと、それは不明である。たまたま同じ時代を東京ですごし、同じ郷里ということで仕事をともにしたにすぎないのかもしれない。それでも、童謡運動が始まる直前に、2人は小さいながらまばゆい輝きを放っている。琴月と冷光が置かれた時代を分かりやすくするために、一つのある音楽会からひもといていくことにする。

[1]畑中圭一『日本の童謡 誕生から九〇年の歩み』(2007年)参照。同書では、童謡は「大人が子どもに向けて創作した芸術味ゆたかな歌謡」としている。そして近年は童謡の概念が揺らいで混同されていると注意を喚起している。童謡運動以降の「童謡」という言葉は、「唱歌」と対立した概念として誕生したのだから、あくまでも線引きをして議論したほうがよいというのである。しかし、私も含めて一般の人には、なかなか分かりにくい話である。いっそのこと『赤い鳥』創刊の大正7年7月以前の子どもの歌はすべて唱歌であると、時期で区切っていただきたいくらいである。
小島美子『日本童謡音楽史』(2004年)のように、旋律などから「童謡」と「唱歌」を分けている専門的な研究もあるが、唱歌のうち特に『尋常小学唱歌』に関する研究が極めて不十分であり、線引きにはまったく首肯できない。『尋常小学唱歌』の成立過程を精査した結果、本サイトでは、『尋常小学唱歌』もまた童謡やわらべ歌を採りこむように作詞作曲されたとみているため、対立概念として扱わない。

『尋常小学唱歌』については、拙著『吉丸一昌の時代』(2022年)『吉丸一昌資料集』(2023年)を参照されたい。

[2]関英雄「大正期の児童文学」『新選日本児童文学』第1巻(1959年)、p323。

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