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《劔山の朝》を深読みする

2016年の生誕140年展で注目された《劔山の朝》の話題を取り上げました。このあとさらに没後70年展に合わせて深い考察をしています。


(1)中日新聞「吉田博 水彩画の剣岳あった」をどう読む

「洋画家・吉田博 水彩画の剣岳あった/長野・大町の旅館 傑作版画と同じ構図」という記事が『中日新聞』2016年7月7日付夕刊に掲載された。大町通信局の林啓太記者による独自ダネである。

版画『劔山の朝』(左)と大町市の旅館にある水彩画

郡山市立美術館の「生誕140周年 吉田博展」の会期中で、NHK日曜美術館の放送が7月10日にあると告知されている時に、こうした話題を書き上げるというのは、ニュース感覚が優れているということだ。展覧会事業主管の毎日新聞を差し置いての独自ダネであり、その点は高く評価したい。

しかしながら内容は少々お粗末である。苦言を述べておく。

まず地名表記の問題である。

×剣岳
○剱岳

これは山岳記事を書く記者なら当然知っているべきことだ。林記者が間違えたとしても、デスクや校閲記者が本来は修正していなければならない。剱岳の表記の問題は、「劍」「劔」「劒」などの旧字以来長年にわたって論議されてきた。国土地理院が2004年発行の2万5000分の1地形図から「剱岳」に変更したのをきっかけに、新聞雑誌では「剱岳」が多くみられるようになっている。

この際、他紙の用字実例を調べてみられるがよい。中日新聞は意地でも常用漢字の「剣」しか使いませんということなのだろうか。記事中の作品名表記も「剣」にしたのはさらに深刻な間違いである。

×版画「剣山の朝」
○版画「劔山の朝」
○版画「劍山の朝」

用字のミスはまあよしとしよう。もっと重要なのは版画と「同じ構図」と書いてしまったことである。

×同じ構図
△ほぼ同じ構図
○似た構図
◎似た構図だが細部は違う

一見して版画と水彩画はよく似ている。しかし同じだと断言してしまってはいけない。吉田博研究の第一人者、安永幸一氏が、左下のサインと画風から「1920年代後半に50歳ごろの吉田本人が描いた作品」と鑑定したそうだから、鑑定に間違いないのだろう。

しかし、これを同じ構図だと本当に安永氏が証言したのだろうか。

まず裏剱の稜線の形が違っている。三ノ窓雪渓(氷河)の落ち込む角度も微妙に違っている。頂上直下の雪形が大きく違う。右手から中央に向かって落ち込む2つの山稜が描かれていない。手前のテントの向きが違っている。テントの相対的な大きさが違っている。したがって、剱岳とテントの遠近感がまったく違っている。

つまり美術の専門家なら当然、構図は似ているが細部は違う、という見方をしているに違いない。取材記者の絵画への理解力がきっと足りないのだ。ニュース価値は、同じ構図である点ではなく、似ているけれど微妙に違う点にあるとみなければならない。

記事によると、安永氏は「『剣山の朝』は、吉田本人も周囲もともに認めた傑作。発表時から人気があり、希望者の求めで水彩画を描いたことがうかがわれ、意義深い発見」と指摘している、という。

版画が先で、水彩画が後ということか。これはなかなか難しい議論だ。これより以前にスケッチが存在し、それをもとに版画をつくり、水彩画を描いたのだろうか。

ちなみに、『劍山の朝』と同じシリーズ日本アルプス十二題の一つ『立山別山』は浄土山腹から室堂を描いた構図だが、これと似た構図の油彩『千古の雪』がある。これも構図はよく似ているが雪形など細部はいくつも違う。制作年は、油彩1909年、版画1926年で、油彩が先である。

いずれにしても、ニュース感覚はいいのに、中身が薄い記事だった。「希望者の求めで」という根拠や、色調についての見方など、もっと安永氏に専門的な意見をうかがってみたいものだ。この先は通信局ではなく本社文化部の美術担当記者がリカバリーしてほしい。(2016-08-09)

(2)吉田博『劔山の朝』は非現実か

吉田博の版画『劔山の朝』は、朝焼けの剱岳(2999m)を表現したものだ。煙が立ち昇るテント、茜色に染まる岩峰いわゆるモルゲンロートとが絶妙な対比となり、奥行き感を演出している。背後の積乱雲が雄大な印象を与える。しかし眺めるにつけ違和感がぬぐえない。それは、早朝に積乱雲が見えるものなのか、という素朴な疑問である。これはもしかして、写真では撮影できない、絵画だからできる非現実あるいは超現実の光景なのではないだろうか。

吉田博 『劔山の朝』 (木版、1926年、37mm×24.8mm)

吉田博の絵画は写実が基本である。昭和6年に出版された『高山の美を語る』の口絵に本人の解説があり、「鹿嶋鎗岳の露営、朝日が今劍山の頂を紅色にそめて居る處」とあり、後立山連峰の鹿島槍ヶ岳か布引山付近からスケッチしている。剱沢に向かって斜めに切れ落ちている三ノ窓雪渓(氷河)=画面中央=と小窓雪渓や、頂上直下の長次郎谷左俣上部とみられる雪形は実際の風景をほぼ忠実に描いている。

しかし、剱岳の一つ手前の稜線、画面左の黒部別山(2353m)から北峰(2284m)、剱沢をまたいでガンドウ尾根にかけての描写は、実際とは違っている。吉田博は剱沢の谷をなだらかな鞍部のように描いた。実際の風景では、北峰の稜線が急に剱沢に落ち込んでいるのでなだらかには見えない。スケッチしたときに雲に遮られて見えなかったのだろうか。

版画『劔山の朝』の左下テント部分
『劔山の昼』 (デジタル処理による試案)

さて問題の積乱雲である。剱岳東面が茜色に染まるとすれば、7~8月の午前4時30分ごろから5時ごろにかけてだろう。そうした早朝に積乱雲が見られるケースがあるかどうか。気象の専門家に一度うかがってみたいものだ。実は、積乱雲は昼から夕方にかけてスケッチしたもの、手前のテントは夕刻の炊飯風景ではないだろうか。その時間帯であれば、剱岳の岩峰は逆光となり東面はシルエットになり暗く沈んでしまう。雪渓は見えるかもしれないが、岩稜は茜色にはならず鈍く沈んだ青となる。モルゲンロートと積乱雲を同時に描いた点がやはり非現実、超現実なのである。

この問題を考えるとき、あの『帆船』シリーズ(瀬戸内海集)という版画を想起する。吉田博は同版色替の技法で「朝」「午前」「午後」「霧」「夜」「夕」の6作品を作り、時間の経過を表現したとされる。『劔山の朝』の茜色の岩稜は、後で色付けしたものなのではないか。

『中日新聞』によって、版画『劔山の朝』によく似た構図の水彩画の存在が知られるようになった。新聞紙面のカラー写真で見る限り、黄土色のテント以外、色が失われているようで、朝か昼か夕方かが分かりにくくなっている。テントとその横の炊事場にも煙が上がっていない。この水彩画はまだまだ考察してみる価値がある。

この稿を書き終えた後になって、剱岳近辺で朝早くから積乱雲が立ち昇っているのを見た。あまり見たことのない光景に驚いた。強い上昇気流によって積雲から成長したというよりも、台風による複雑な気流と山岳地形が生み出しているような積乱雲だった。

とすれば、吉田博の『劔山の朝』も決して非現実だと決めつけるわけにもいかなくなった。吉田博はやはりその極めて数少ない光景を目にしたのかもしれない。(2016-08-11)

《劔山の朝》を解析する(2020年)
《劔山の朝》は非現実か再論(2021年)※「『高山の美を語る』復刻に寄せて」一部有料記事です。油彩画《鹿嶋鎗ヶ嶽野営の朝》との比較検討をしています。

(3)90年後の『劔山の朝』は見えたか

山岳雑誌『PEAKSピークス』10月号の吉田博特集で、山岳画家・エッセイストの成瀬洋平氏が「90年後の『劔山の朝』を描く」を書いている。日美旅ブログを評した以上、これについても率直な感想を記そう。

その前に雑誌編集者に苦言を申し上げる。『PEAKSピークス』の吉田博特集は、雑誌『岳人』4月号と、それほど変わらないものだった。特に吉田博の年譜はひどい。『岳人』と同じように展覧会の年譜から抜き出してくるだけの手抜き編集。山岳専門雑誌の気概というものが感じられない。

さてそんな特集記事のなかで成瀬氏の「90年後の『劔山の朝』を描く」は見逃せない記事だった。

1926年に摺られた版画『劔山の朝』の場面を確認するために、わざわざその現場にまで足を運び、吉田博の絵画感覚を感じ取るという挑戦である。私の知るかぎりそういう先例はない。『山の絵本』で山岳写真家の白籏史朗氏が白黒写真で撮影されたけれども、それは決して成功したとはいえなかった。

だから成瀬氏の今回の山行はそれなりに意義がある。エッセイの詳細はここで紹介しないけれども、簡単に言うと、冷池のテント場を出て布引山(2683m)を越えるとちょうど日の出のころで、鹿島槍側に一段登ったところで西側を見下ろすと平地があり、三の窓雪渓(氷河)や黒部別山の見え方から、ここがまさに吉田博が90年前に『劔山の朝』を描いた場所だと確信したという。

鹿島槍ヶ岳を目指す人にとっては単なる通過点だが、その場所こそが吉田博が選んだポジションだったのであろう。成瀬氏がその場所にたどりついた労はねぎらいたいが、山岳エッセイとしてはすこし物足りなさを感じた。『劔山の朝』は本当に見えたのか、と問いたい。

成瀬氏の山行は記録性に乏しい一面がある。そもそも何月何日の何時何分のことなのか、そしてその場所が正確にGPSでどこなのか、そして肝心の天気や空気の湿り気はどうだったのか。絵描きがみなそうだとは思わないが、実は吉田博自身の文章も記録性には乏しい。吉田博『高山の美を語る』という本には日時や場所があまり詳しく記されていない。

時間と場所というのは重要だ。たとえば、成瀬氏は三の窓雪渓(氷河)に言及したけれど、剱岳東面の雪絵全体をもっと見てほしかった。雪絵は季節によって変化する。雪絵の大きさや形を見れば、吉田博がそれを描いたのは7月なのか8月なのか9月なのかぐらいは分かるかもしれない。特に頂上直下の長次郎谷上部雪渓の見え方は注目してほしかった。

もう一つ、構図についてしっかり言及してほしかった。私ならこの場所で縦構図を選んだ吉田博の大胆さと執念を感じる。

版画『劔山の朝』はどうしても色に目がいく作品である。岩稜を染める朝日の赤紫色。まだ高原の暗い青色。その中央に立つ三角テントの沈んだ黄色。傍らで点景となっている焚火の赤色。雲は淡い橙色、空は薄い青色。確かに色の妙味はある。しかし、写真の目でみれば、この配色はすこし嘘っぽい。むしろ注目すべきは構図である。『劔山の朝』は吉田博の画面構成力がいかんなく発揮されたとみるべきである。

いま同じ場所に立って同じような縦構図でカメラを構える人はいるだろうか。たぶん100人中99人は横でフレーミングしてしまう。それはなぜか。水平方向に視野が広がり、横構図のほうが安定感があるからである。カメラは横長形状で右上にシャッターボタンがあるから横に構えるのが自然で、たいていのカメラマンはこの場所で無意識のうちに横に構える。

縦構図を選ぶとすれば、斜めに落ちる三の窓雪渓(氷河)を主題にすえた場合だろうが、この大パノラマで三の窓雪渓だけを狙うのは氷河調査の科学者ぐらいではないか。縦構図の場合、画面下、つまり手前に棒小屋沢という黒部の支谷を写し込むことになり、その何の変哲もない谷で下半分の画面をまとめることが難しい。

この場所は剱岳から黒部峡谷をはさんで直線距離で11キロもある。『劔山の朝』と同じような構図を作るには、35mm換算で65mm-70mm程度の中望遠レンズとなる。11キロも離れると山容はどうしても霞んでしまう。山岳取材では中望遠レンズはあまり使わず、常用レンズは広角ズームか標準ズームである。

なぜ吉田博は中望遠の画角を採用したのか。それは目の付け所が違うからである。吉田博の狙う主題はたぶん剱岳の岩稜と三ノ窓雪渓にあったにちがいない。だから剱沢の谷間に三の窓雪渓が落ち込むように見える場所をわざわざ選び、三ノ窓雪渓を画面のより中央に配して奥行き感を出すために手前にテントを配し、空の部分をやや広めにして夏の雲が湧き立つのを待ったのではないか。通常の山岳写真では、山の高度感を表現するには縦構図で空の部分を切り詰めてしまう。ところが、吉田の場合は、切り詰めずに、そこが空白にならないだけの雲模様が生まれるまで待ったのであろう。よほどの執念がないとこのような完璧な構図は作れない。

ずいぶん話がそれてしまったが、吉田の作った山岳版画は《劔山の朝》のほかにも傑作がある。シリーズ「日本アルプス十二題」「南アルプス集」はまだまだ議論を愉しむ余地があるということだ。成瀬氏の今後の活躍を期待する。(2016-09-17)

没後70年 吉田博展PR動画批評 《劍山の朝》を解析する 2020年

剱岳をどう描いたか 2017年


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