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立山画報(明治32年8月-9月『讀賣新聞』、城陽)

明治時代の立山道のガイドブックのような記事。味わい深い線画によって当時の雰囲気が伝わる。


(1)黒百合

(斑紋ハ緑地に濃紫黒色、花ハ大サ形状とも姫百合と異らず)
立山々中黒百合の生ずる地ハ浄土山の南谷、及地獄谷の近傍にあれども地獄谷附近の物ハ硫黄の氣に撲たれて發生甚だ完全ならず圖に示せるハ強力と共に浄土山の南谷に一日を費して漸く二株を得し其一つなり尚神通川の上流になれども探ぐりし者なく信州針抜峠の深谷にも生ずれども殆んど人跡稀なる所にして時に岩茸取りの携へて歸るとありと云ふ鏡花子の岩瀧とハ何くの邊にや人力車など思ひも寄らず

【解説】『讀賣新聞』明治32年8月29日3面。立山は戦国の武将、佐々成政の黒百合伝説で知られる。立山を広く知ってもらうために、連載の最初に黒百合が取り上げられたのにはその伝説以外にもわけがある。城陽という作者は「鏡花子の岩瀧とは何くの邊にや」と書く。讀賣新聞では明治32年6月28日から8月28日まで泉鏡花の小説「黒百合」が連載された。その連載が終わった翌日のタイミングでこの絵が掲載された。

1899/6/28~1899/8/28

(2)登山者深夜草生の峻坂を越ゆ

立山ハ絶頂まで蘆倉より十里(五十町一里)なれバ夜十一時頃より提灯を携へて登山せざれバ途中日没して凍死の災あり此を以て夜十時頃より隊を組んで登り其夜ハ寳堂に泊し翌朝本山に登りて歸るを常とす

【解説】『讀賣新聞』明治32年8月30日3面。麓の芦峅から雄山山頂まで10里。朝の出発では途中日没で凍死の恐れがあるとして、夜10時ごろに芦峅を隊を組んで出発し、提灯をかざしながら登ったようだ。草生坂は、千寿が原の手前の急坂で、このあたりで午後11時だったらしい。

(3)権現堂茶店

【解説】『讀賣新聞』明治32年9月1日3面。材木坂を上りきったところに熊王権現と呼ばれる小さな祠があり、その近くに茶店があった。

(4)かむろ杉

かむろ杉ハ往昔一人のかむろ情夫を慕ひ女人禁制を犯して登山し此處に至りて遂に斃れ亡魂永く杉となりしと伝ふるもの、紙片を垂下せるハ結縁の祈願なりと云ふ

【解説】『讀賣新聞』明治32年9月2日3面。美女平にあった杉の奇樹。大井冷光『立山案内』(1908年)によると、高さは7尺ほどしかなかったという。

(5)ぶな平の泥濘

【解説】『讀賣新聞』明治32年9月3日3面。ブナ平はぬかるんだ道が続いていたらしい。

(6)彌陀ヶ原(御田ヶ原)

弥陀ヶ原ハ閑古鳥と似て有名なるの地にして閑古鳥ハ古來其名なりて其形なく角地閑古鳥と称するもの悉く其形を異にす當地称する閑古鳥又信ずべからずツヽムギに似て黒色に白の斑点ありて鳴く聲最も哀なり此鳥又夜あるを知らず終日囀り盡くして山間日暮れ俄に忽ち暗黒となるや始めて塒を求めて終夜哀に鳴き叫びて曉に達し又夜あるを忘る故を以て登山者の夜谿に迷ふ者此聲を聞ていとど腸を断つといふ

【解説】『讀賣新聞』明治32年9月4日3面。見通しの利く平原に出た。閑古鳥は雷鳥のことをさすが、当時は弥陀ヶ原に雷鳥が生息していたのだろうか。

(7)一の谷越え

一ノ谷越ハ二ノ谷越と共に當山第一の嶮路、一條の鉄鎖に依りて僅に登るを得、若し誤て手を放さバ一片の舎利何れの邊にか求めん

【解説】『讀賣新聞』明治32年9月6日3面。当時すでに鉄鎖があったことが記されている。

(8)二の谷越

【解説】『讀賣新聞』明治32年9月8日3面。『立山権現』『立山案内』によると、追分からみて二の谷は一の谷の手前にあるはずだが、この連載では順序が入れ替わっている。一の谷と同じように険しい鎖場として描かれている。

(9)五の越より本山絶頂立山権現社を望む

【解説】『讀賣新聞』明治32年9月9日3面。現代では「五の越」は雄山頂上(標高3003m)下の(2992m)を指す。立山曼荼羅のように距離感と高度感がややデフォルメして描かれている。

(10)本山絶頂より鎗ヶ峯を望む

【解説】『讀賣新聞』明治32年9月10日3面。「鎗ヶ峯」は現在の剱岳か。マサゴ岳、別山も記されている。大蓮華山は白馬岳を指すが、当時は最も標高の高い山と見られていたようである。

(11)本山頂上より信州鎗ヶ岳を望む

【解説】『讀賣新聞』明治32年9月12日3面。「本山」は雄山山頂を指す。一等三角点「立山雄山」に当時三角測量の櫓が立っていたことがうかがえる。五ノ越または四ノ越にも社らしきものが描かれているが、高度感がなかなか読み取れない。

(12)下山者立山権現の赤旗を擁するの図

【解説】『讀賣新聞』明治32年8月30日3面。

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