見出し画像

水に生かされている

ちょっとしたことがきっかけで、遠い過去の記憶を思い出すことがある。

先日、家で『日日是好日』という映画を観た。
茶道を習っている主人公の語りの中に、「お湯はとろとろ、水はきらきらって聞こえる」という表現があった。

その時、水にまつわる記憶がよみがえってきた。

幼稚園生のころ、祖母の家に遊びにいったとき、近くの公園へ散歩に行くのを楽しみにしていた。その公園には大きな池があって、そこで泳ぐカモたちを何時間も飽きずに眺めていた記憶。

小学生のころに読んでいた子供向け新聞で、毎週、川柳の募集があった。応募された作品のうち、優秀賞とされた1つだけが新聞に掲載されていた。私は、近所の友達と簡易プールで遊んだ思い出から、
「水しぶき 空に飛び散る ダイヤかな」
という川柳を思いつき、応募した。期待と緊張2色の心で翌週の新聞を開くと、載っていたのは別の作品だった記憶。

中学生のころ、毎年夏休みに自由作文の課題が出された。私は、「夏っぽさ」をテーマに、冷たい飲み物に入れた氷とガラスのコップが奏でる音が心地よいこと、ガラスのコップにできる結露が綺麗なことを綴った記憶。

改めて考えてみると、私は幼い頃から「水」に惹かれていたのかもしれない。ちょっと衝撃だった。

数か月前まで私は、水がとびっきり美しい国で生きていた。いや、水に生かされていた。
落ち込んだときも、少し疲れたときも、ただ単に散歩をしたい気分のときも、私は水を見に行った。揺れて輝く青をベンチに座ってぼんやり眺めることが、一人暮らしをしていた私の最高の充電方法だった。

その時は「私はすっかりここの水辺が好きになったなぁ」と、自分の意外な一面を見た気でいたけれど、今思えば必然のことだったのかもしれない。
水辺を何度も訪れたのも、あの国を選んだのも、全部。
そういえば、私の名前にも「水」が入っている。名前を付けてくれた母は全くもって意図していなかっただろうけど、やっぱり昔から水に生かされてきたのかもしれない。なんだか運命的だ。

成長するにつれて、祖母との思い出の公園には行かなくなってしまったうえに、日々のめまぐるしさが増した。勉強とか部活とか、別のことに追われているうちに、「今」と「未来」に興味が移っていった。そうして、過去の記憶は知らず知らずのうちに埋もれていってしまった。好きなものを、「やっぱり好きだなぁ」と素直に噛みしめる時間を疎かにしていたようにも思う。

何かを指でちょんと触るような、本当に些細な揺れで、とりとめのない記憶が心に浮かび上がってくる。そういう風にして思い出される記憶は、おそらく「あのころ」、他のものに抱く感情よりも、少し強い感情を抱いていたものにまつわる。だから、私を私たらしめる大切な要素の1つであると感じる。

同時に、こういう時、忘れることを恐れることはないのだ、とも思う。だって忘れていないから。長い間放っておかれていた記憶も、十数年越しに会いに来てくれた。
自分にとって本当に大切なことは、忘れないから、大丈夫。その時に抱いた少し強めの感情が、きっと大事な部分だけは心の奥底につなぎ留めておく。
全ての物事に対して、「全部自分が覚えていて、自分で思い出すんだ」って肩に力を入れなくても良い。
自分の外側にあるものが思い出させてくれる方が「生かされている」という感じがして、しなやかな人間でいられそうだ。  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?