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今の自分で過去は変わる

SNSで回ってきた『若いころの写真バトン』
これだけは声かけられたくないなーと思っているものに限って
来てしまうもので。。。。

過去写真は無いに等しい扱い

そもそも、私、自分の過去の写真を持ち合わせていない。
全て実家においてある。
だって、心理的にとても嫌だから。
自分が自分でなかった時代の写真に写る自分は
自分であって自分でない。

この感覚、理解できる人案外いるいるなんじゃないかな。
脳裏記憶にある本来の私らしい写真は1歳2歳が最後。
それ以降は『暗い・固まった・感情の無い・自分のない』そんな言葉で表現できそうな、写真ばかり。自然な笑顔なんてない。楽しそうなんて見えてこない。傍から見たら違うかもだけど、私からは無表情にしか見えない自分の写真。
見たいなんて思えない。
まだ捨ててないだけ、いいのかも。

で、そんなバトン受け取らなければいいのに、
なんか断ることも面倒くさくてね。
断る=理由を伝える
理由を伝える=自分の内面と向き合う

ユーモアある善意のバトンリレーの声掛けに対して、自分が自分に対してそれをしたくなかったこと。
プラス
声かけてきた人は、そんな理由を理解できる人じゃない気もして、
断る選択がなかった。

断らなかった理由のもう一つが、
『そういえば!写真唯一あるかも』と、
クリアボックスに入っている
昭和時代の写真を現像に出すともらえた
紙製フォトアルバムの姿が目に入ったから。

そこには0歳の時の写真が数枚。
母が押し付けるように、『自分でもってなさい』と、
いらないものを渡すように私の手元に来た写真たち。

さらっとみて、また昔の傷がうずきそうで、
とりあえずボックスに保管しておいたもの。
そこから動くことなく何年たっていたんだろう。

過去の憎しみ続々

無感情で何年ぶりに取り出して、少しでも映りの良く見える写真を吟味。
モノクロっていうとかっこいい感じだけど、純正白黒写真の昭和色。

選んだ写真の1枚は、ランニング、ステテコ、腹巻姿の父親と一緒に寝転がっているもの。
手元にはないが、0歳の私を抱っこして微笑んでいる父親との写真もある。
以前は、この2枚の写真を見るたびに、腹ただしい気持ちが湧き出てきた。

何にもしなかったくせに!
家にいなかったくせに!
時々いると思えば、母を怒鳴りつけたくせに!
いつも自分勝手で不機嫌で口ばっかりのくせに!
妹達と違って長女の私ばかり禁止と厳しいしつけいっぱいだったくせに!

心と体の幼いころの記憶には、甘えたことも、ふれあったことも、楽しい体験も、優しい言葉をかけられたことも、理解されたと感じたことも、何もない。絞っても絞っても出てこない。

それなのに、写真の中だけ(この時だけ)いい父親のふりしやがって!!!!!!!!
という、憎悪感がでてきちゃう。
その憎悪の奥には、

かわいがってほしかった
甘えたかった
妹たちのように『いいよ』って言ってほしかった
一緒に楽しく遊びたかった
認めてほしかった

子どもらしくいたかったけれど、そうできなかった自分の本当の気持ちが見えるようになったのは、数年前くらいから。

ぎゃ!私が変わった!

写真をあえて見る選択は日常では一切なかったけれど、やむを得ず見ることになってしまったバトンリレーで見てしまった写真は、前のような憎悪の気持ちは一切湧くことなく。


あれ!?


おや!?


わたし変わった!!!!!!

人生変えるために、色々色々やってきて、
何度も自分に向き合い、様々なセッションやカウンセリングや心理の学びやセルフケアを積み重ねてきた成果がこんなところにも!!!

私の知っている父親がぐーたらしていた時と同じポーズをとる若き日の父親は、0歳の私に視点を落とし、そのまなざしがとても優しく感じられる。

 あー、私、愛されていたんだ。

少なくとも、この写真の一瞬は間違いなく愛おしいと思ってくれていたと思えた自分。

穏やかな生活を目指して、穏やかな生活が実現。
その後は自分を癒すことが必然のように始まって、
癒しの大切さをなんとなく理解し始めてきたところ。

あー、私、癒されてきたんだ。

同じ写真を見ての感じ方の大きな変化に、
私自身の大きな変化を知ることができました。


サポートいただけたら嬉しいです。今は自立が難しい長男のアート作品を使ったグッズ制作販売やそのためのスキル取得など、彼と共に生きる術に活用します。