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小学生のママ曰く「運動会で泣けるのは、よその子の競技のとき」

先日、友だちが興味深い話をしてくれました。
彼女は小学生の子を持つママ。
合唱コンクールだったり運動会だったり、子どもの学校行事に行く度に感じることがあると言います。
「自分の子の発表や競技では意外と泣かないの。でも、子どもの友だちとか、他の学年の子たちが頑張ってる姿は、めちゃめちゃ泣けるんだよね」

自分の子の出番では、「練習してたところ、ちゃんとできるかな?」と不安になったり緊張したりするばかりで、「泣く余裕なんてない」ということのようです。
もちろん個人差はあるでしょうし、「私は自分の子の出番で泣きますよ」という人もいるとは思うのですが、私の友だちがよその子の出番のときにだけ泣くのは、目の前で起きている出来事との「心の距離の問題」ではないかと思うのです。

つまり、よその子の出番のときには、程よく心の距離があることで、出来事が”コンテンツ化”するのではないかと。
対する「自分の子の出番」は、あまりに心の距離が近く、感情移入のレベルが高すぎて、”コンテンツとして見る”という感覚が生まれないんじゃないかと思うわけです。
考えてみれば、自分がコンテンツの視聴者、読者になったときも、過去の実体験とあまりに近いものは、息苦しくなって離脱することが多いように思います。

……といったことを考えるうちに、ひとつ疑問が湧いてきました。
作り手としての私は、作品内で社会問題を扱う場合があります。
多くの場合、そこには「作品を通して問題提起をしたい」という意図があり、「気持ちを揺さぶられた」「泣いた」といった反応があれば、手ごたえを感じます。
実はこうしたことは、扱っている問題を”コンテンツ化”し、消費しているだけなのではないか?
果たしてそれは許されることなのか?

あれこれと考えた上で、現時点での私の答えは、
「たとえコンテンツとしてであっても、耳目を集めること自体に意義はある」
というもの。
ある問題について多くの人に知ってもらうことは、深く考え、何らかのアクションを起こしてもらうことの”入り口”にはなり得るはずです。
そして作り手としては、「自分は、ほんの小さな”入り口”を作っているだけに過ぎない」という自覚をしっかりと持っていたいと思います。
その自覚がある人だけが、社会問題化している人の痛みや苦しみを作品内で扱うことを許される。
なんとなく、そんな気がしています。

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