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喫茶店の人 #8 【喫茶バロン】 井上省一さん

神戸市須磨区中島町のバロンは井上省一さんと道子さんが夫婦で切り盛りする喫茶店だった。

私がはじめてバロンを訪れたのは、2020年10月。
バロンを後にする際に、道子さんの後ろ姿を何気なく写真に収めた。
それが最後になるとも知らずに。


井上省一さん

バロンのマスター、井上省一さん(85歳)は兵庫県たつの市生まれ。小学1年生で終戦を迎える。
中学を卒業後、神戸市長田区のおばさん夫婦の家に養子に出された。

「うちは7人兄弟で、おばさんのとこは子どもがおらんかったから養子になった。
おじさんは苦労してきた人やから、ワシの気持ちをよくわかってくれた。高校にも通わせてくれたし、ええもんを食べさせてくれた。いまだに長田のおばさんの夢を見るのは、実親よりも恩義を感じているからやと思う」

通っていた定時制高校で、後に道子さんを紹介してくれた友達と出会う。
「当時の夜学は150人くらい生徒がおってん。昼間はみんな仕事に行ってるから、授業中は疲れて寝てる奴が多かったわ。眠たかったら寝ていいって、先生も大目に見てくれてた。みんな貧しくて、食堂のそばが一杯30円でも払われへん子が多かったからよく奢ってやったわ。

夜学で山形の子と仲良くなった。その子と信州の山登りに行ったときに立ち寄った喫茶店の名前が“バロン”っていうねん。
バロンって何の意味やろうな思ってな、帰ってきて辞書を引いたら男爵やった。男爵、ワシと一緒や(笑)
勉強はできなかったけど、友達はできた。その子がお母ちゃん(道子さん)を紹介してくれたんや」


2020年10月にバロンで撮った写真

バロンが開店したのは昭和43年7月。1月に結婚、7月にオープン、11月に一人息子が産まれた。
本当は寿司屋になりたかったが3年は修行しないといけなかったから、見習いをしてすぐに独り立ちできる喫茶店をすることにした。

「最初はね、こんな場所に喫茶店を作ったって流行らへんって言われてんけど、周辺に続々と喫茶店がオープンしてん。なんでかって?役所がよそからバロンのある中島町に移転してくるから。UCCに勤めていた友達に『井上さん、この物件買っておいたほうがええで。役所の人間はね、暇やからよくコーヒー飲みに来る』って勧められて喫茶店を作ったんや。周辺には5つも喫茶店があったけど、どの店もそれぞれに流行っていたよ」

(※平成24年5月まで、バロンの近所に須磨区役所があった)

オープンしてしばらくは道子さんとUCCから紹介された女性バーテンダーの2人で切り盛りしていた。

「開店時、ワシはまだ会社勤めをしててん。夏に役所から出前を持ってきてくれと頼まれて、お母ちゃんは歩いてソーダ水を持っていったんやけど、着いたころには氷が溶けとってん。こらあかんわ、ワシが配達せなあかんって手伝うようになったんよ。会議用に30杯分のコーヒーを頼まれることもあったから、カバンを特注して配達していた。これは役所の広報課に出前を持って行ったときの写真。神戸新聞の記者がたまたま居合わせて、記事にさせてって写真を撮られた。このとき50代くらいちゃうか。嫁さんや息子を幸せにしたらなあかんと思って一生懸命働いたわ」

バロンのママ、井上道子さんが癌で亡くなったのは2021年9月。
「本日休みます」という貼り紙を出してから、再開することなく閉店した。

「はっきりした閉店日はわからんわ。一緒に切り盛りしていたお母ちゃんの具合が悪くなってから、休業にしていたからね。そのまま再開することなく、辞めてしもうてん。道で会ったお客さんから『マスター1人でもバロンを開けてくれや』って言われたけど、無理やで。

病院で癌だとわかったら、息子が店に怒鳴り込んできてん。
『お母ちゃんを放ったらかしにしやがって』って息子にえらい剣幕で怒られたよ。
あんなに怒られたことはなかった。そのときすでに末期で、1か月で逝ってしまった。お母ちゃんが亡くなったあとに、周りの人に『奥さん、よう働いとったなぁ』って言われた。大人しそうやけど、なかなか気が強かったわ」

気丈に話す省一さんの目には、時折涙が浮かんでいた。
私は二人の写真を見せてもらいながら、カウンターで働く道子さんの姿を思い浮かべていた。


古いトランクから出てきた、夫婦の若かりし頃の写真
道子さんの後ろ姿を写真に収めていた


▼バロンは店名そのままに、新オーナーが継業しています▼


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