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2月4日

日付が変わる前に日めくりできなくて残念…だが、疲れ果てるまでバイトを頑張っている私は偉い!(と心のなかのペコパ兄さんが言ってるのでゆるしてください)今日はちょっとだけ長めに書くかも。

成功と学びしかない、というよりは全てを糧にしていける生き方かどうか、という気がしている。全てを学びに変えていけるかどうか。

先日以下の記事を読んで思ったことをツイートした。



思春期を過ごすなかで、自分のやりたいことがなんなのか追求することをしなかったために、もしくは大人にそうさせてもらえなったことで、就職活動の時になって自分のやりたいことが見つからない、という悩み相談だった。こんな自分に喝をいれてください、という学生に対して幡野さんが、喝をいれるなんてめんどうくさいから嫌だと、喝を入れられるということは「おどされて」感情をコントロールされていることだと一蹴しているのがいい。

このツイートをしたときは、思春期に自分の意思表明を流れに抗って行うことも大事なんだ、と呟いた。しかし、これには続きがあると思った。確かに私は少しばかり暴れん坊な思春期を過ごすことができて、恵まれている。けれど、その時期を糧にできたのは私自身の実力と努力であるとも思う。

思春期にしっかり自分の意思を通した経験をしたとしても、それが自分の自由な選択だった、自分は恵まれていたと思うことができるかどうか。恵まれているんだから、この選択を無駄にできないと努力できるかどうかが大切なのだ。成功と学びしかないのではなく、大事なのはきっと、全てを学びに変えていく意思を持つことなのだ。

本質の話は「私ならどうするか」という話ではないのだが、全てをyes に変えるという私の生き方は、まさにそんなことの積み重ねなのだ。自分の置かれた境遇を変えることは容易ではない。なんの運命のいたずらか、大変な境遇に生まれついて、出会いに恵まれない人生を送る人もいるのかもしれない。

私はそんな人たちにいつも羨ましいという目で見られて生きてきた側の人間だ。エチカちゃんは恵まれている。立っている場所がいいから、私の気持ちはわからないよ、悩みなんてないでしょ。と言われて育ってきた。

なにを言うか!悩みだらけだし、不幸自慢をしようと思えばいくらでも出てくる。そんなことをしても、自分がマイナスになっていくだけだとわかっているから、不幸なふりをせずに自分が立っている場所が恵まれていると認めているだけである。生きていくために、いつも涙は堪えるしかなかった。

最近になって、この世界には2種類の人間がいる…なんてつまらない事を思ってしまった。「置かれた場所で咲ける人」とそうでない人である。この言葉を言ったのは、渡辺和子さんで著書のタイトルは『置かれた場所で咲きなさい』だ。私にとって置かれた場所で咲くことは、至極当然のことなのだが(これはきっと母ゆずりの才能なのかも)そうできない人種もどうやらいるみたいなのだ。その人種の人たちとは、何度話し合っても、これまで意見が真っ向からぶつかってしまった。そして諦める形で出た結論は上記の、世の中には2種類の人間がいる…である。

それはきっと私とは違う生き方で、その人にとってはいい風に作用しているんだと思う。なにより、自分は不幸だと思っている方がとてつもなく楽だし。不満を言うのは本当に簡単で、人にうまいこと言って助けてもらうのも実は割と簡単だ。プラスに考えるとその不幸から抜け出してやるぞ!という気持ちこそが、向上心や、行動の原動力になっている人もいるのかも。それはそれで楽しそうな人生である。

だけど私は置かれた場所に、その段階で心から満足して目一杯努力する生き方が合っているし、それを心地よいと思うのだ。私が生きてきたなかで無駄なことなんて、なに一つ無かったと自分で認めている人生を送っていたい。ただそれだけ。

だから、幡野さんにこのお悩みの投稿をした私と同年代の女の子にも、自分の歩んできた道のりや、敷かれてきたレールを恨んだりしないで、自分が置かれた環境が実は恵まれていることに気がついてくれるといいなと思う。そこから自分の力で、自分を自由にすることなしに、これからの人生を切り拓いていくことは難しいような気がしてしまうのだ。

でも根本の問題はやっぱり自分が愛されているという自信なんだろうな。

そんな2月4日。

エチカ


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