見出し画像

将来の最適解

少し前、自分の将来について結構真剣に悩んだ挙句ちょっと病んでた時期があった。自分は今の学校を卒業したらどこにどう進学して、どういう仕事について、どういう生活をしていくのだろう。正解のない問題だと気付かず、最適解ではなく正解を求めようとしていた頃。

当時の先生には「君は大学進学でもいいけど、なんか専門的なところで職人みたいな人になるのもいいと思うよ」と言われたことがある。二者面談で。あんまり頭が良くない自分に対しての救いの手だろうか。知らんけど。

今思えばかなり抽象的な発言だし真に受けなくてもいいような事だが、僕自身結構単純な人間で「そうかぁそうなのかぁふぅむふむふむ」と結構真に受けやすい性格。面談後に出た「1週間以内に学校を調べてレポート提出」と言う先生の宿題を真面目に取り組むことにした。

とはいえ自分は専門学校よりも普通に大学に行きたかった。職人になれるとか言う学校を調べていて気づいた。ん?“普通に大学に行く”ってなんだ? ん?なんで俺は“大学に行きたい”んだ?大学で何をするんだ?何を学ぶんだ?その後何の仕事に就くんだ?

迷宮入り。結局レポートは出さなかった。


大人になったら何がしたいのだろう。考えた。というのは嘘で、その疑問の答えは今のところひとつだと言うことは知っていた。音楽でご飯を食べることだ。ただその夢を自分は将来の夢とは言えなかった。

周りを見るとみんな道筋の見える将来の夢があった。教員、アナウンサー、研究員、平凡な生活、とか。学勉をしっかりして、自分の目指す学部学科のある大学へ進学し、卒業後あの頃の夢へと飛び出す。とてもわかりやすいルートだった。そんなルートに自分は憧れていた。みんなと一緒に同じような道の人生を歩みたい日本人っぽい思考が僕の中にも強くあった。今もある。

音楽でご飯を食べること。叶うかどうかと言われたら分からなかった。というよりも叶わないのではないかと思っていた。自分を信じれずにいた。

音楽が好きだということはその頃から強くあった。母には「音楽はひとつの大きな趣味として持って、仕事はしっかりとしたところに就きなさい」と言われた。真に受けやすい自分は「それがいい!!」と思っていた。単純なもんで。

ただ少し考えてみると浮かぶ思考は「じゃあその仕事って何?」ということ。“音楽でご飯を食べること”を自分にも隠して生きていた自分にとって、そんな仕事は思いつくわけがなかった。

色んな人に相談して色んな人に色んなことを言われて色んなことを考えて時間とともに深く深く迷宮化していった。介護のこととか結構関係ないことも考え始めていて完全に空回りしていた。


ある日から考えることを放棄した。そんなことで思い詰める必要は無い。無理に見つけ出す必要は無い。そう思った瞬間、考えるのをやめることが出来た。やめたかった。

そのあと、自分は音楽がしたいことを再び思い出して、それを認めることにした。あの時色々気が軽くなったことは今でも覚えてる。

結果的に将来のことについて自分の中で今のところの答えは出ている。大学で音響学を学び、音楽制作をしながら仕事でも音楽に関わることをする。そしていつか自分の作った音楽が日本中、世界中に広まって、その音楽でご飯を食べる。考えることやめたあとの今のところの最適解。それがうまくいこうがいかまいが自分が幸せならそれでいい。


ただ最近思うこととしては将来のことなんて誰にも分からないということ。“今のところ”は音楽とともに生きていこう、歩んでいこうと思ってはいるが、人生は予想外の連続。もしかしたら世界中飛び回ってポーカーしてるかもしれないし、もしかしたらサイクリングに目覚めて自転車日本一周旅をしているかもしれないし、普通のサラリーマンになっているかもしれない。

今の自分を振り返っても、夢でしか無かった「ステージで歌うこと」が高校のコピバンによって叶うとは思ってもみなかったし、部活で行ったカラオケによってゲス極を知り、ゲス極沼にハマったことも予想なんかできない。

話が少し逸れるが、今まで自分は部活選びに失敗したなぁと強く思っていた。これから先音楽制作をするならそれ相応の部活に行っておけばもうちょっといい人生を送れたのでは、と。ただそれは違うと最近気づいた。なんせゲス極を知ったのは“今の部活”の人と行ったカラオケからであって、違う部活にいたらゲス極やJpopの魅力には多分出会っていなかった。いや出会ってたかもしれないけど。そんなパラレルな世界線は分かるわけがないが、少なくとも今の部活があって今の自分がいて、だからこそ音楽制作をしたいと思っている自分がいる。

話を戻すと、将来のことは自分のことだけではない。AI技術の発展やらなにやらで人が音楽を作る時代は終わるかもしれないし、第三次、第四次世界大戦が始まって兵士かなんかとして駆り出されてるかもしれない。いいことだけでは無い。どうしようも出来ないような悪いことだってある。今の情勢だってそう。

だから、“将来のこと”に正解なんてない。そう結論づけた。

今では自分だけではどうしようも出来ないことがあっても、その時自分がやりたいことで生きてご飯を食べて行ければ、それが最適解なのだと思うことにしている。というかそれが最適解だ。

やってみたいをそっとしまいこむのはもうやめた。消去法は、やめるんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?