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それじゃあもっと変われないね

今日はとても、しんどかった。いつもの楽しさを削った分だけ心をすり減らしてしまった日だった。


自分の代役が出る作品を自分自身が見ることはとても辛かった。元々は自分がそこに居たのに、という喪失感。自己承認欲求の欠落。


元はと言えば自分が悪いのだ。自分がその時考えた怠惰な行動が仲間の考えや信頼度を揺るがし、結果として自分が跳ねられたという事実。全て自覚している。どう考えても自分が悪い。


それを分かった上で、自分の心の中に相手への嫉妬を含めてしまっているのがどうしても無理だ。そんな自分があまりにも嫌すぎるし、それを全て自覚した上で、仲間には「いや〜自分が悪いから笑」と返答する仲間想いと書いて素直じゃないと読む自分の行動にむず痒い気持ちを抑えられない。


新たな外枠に入り、思い切り、様々なコミュニティに入ったこと、というより運良く入れたことのメリットはとても大きかったと思う。しかし今日に関しては、そのコミュニティで自分が認められる分だけ自己承認欲求の肥大化が着々と進んでいたという認めたくない事実に気付かされてしまった。


その日の打ち上げ、BADな心を一瞬でいいから全て晴らしたいという一心でいつも以上に無理をした。最後に遺ったのは想像力と本能が開花した自身への攻撃だけだった。吐き出したい。先着を待っている場合では無い。譲ってくれ。吐き出させてくれ。



そうして私は、音楽の鳴らないイヤホンを付けたまま、筆をとってタイピングをし続けている。




自分は、あまりにもこの環境に依存しすぎている。元々メインとして考えていなかったこのステージで本気で病めてしまうほど依存してしまっている現状。とても、阿呆だと思う。



日常生活依存症。自分の一番やりたいことをほっぽり出して、自分が確実に活躍できるあれやこれに全力で動いてしまう。行動だけ見れば心底偉いと思う。でも、自分的には、心底偉くないのだ。


今一番仲良くしてもらっている友達は馬鹿の波長が合い共にふざけあっている。そんな友がことある事に口に出す「人生は死ぬまでの暇潰しだ」という意見は、どんなに仲が良かったとしても同意が出来ない。どうしても、無理だ。


私は「死」という現実を人一倍恐怖に感じる死恐怖症だ。この前お酒を飲みすぎた勢いで友達にこのことを1から8くらいまで話してしまったこともあったが、誰も自分の意見に同意はしてくれなかった。死んだら意識が無くなるからこれまでのあれこれが全て無くなり、自我も無くなり、いつか地球が滅んで…という考えが自分の恐怖心の根幹にあるのに対し、周りはむしろポジティブだったり何も感じないというスタンスだ。まぁ、分かってくれないのは話す前から分かっている。


とはいえ奇跡的に受けた“生”に対しありがた迷惑だとも思ったりはしない。だからこそ、自分が本当にやりたいことだけを見て、一度そこへ全うしてみるというレールから外れた生き方をしてみたいという気持ちは数年前からずっと持ち続けている。自分の場合、それは音楽だ。


そして現状は、何も出来ていない。レール上の生活が軌道に乗りすぎている。


自分の第一優先をある程度満たした上で、もう1つの軸を身の丈に合わせることは理にかなっていると思う。それに対し、自分は上記の順序を逆転させてしまっている。


順序もクソもない。やりたいならやればいいじゃないか。


分かっている。分かっていて尚、依存から抜け出せない自分が、本当に大嫌いだ。



私の春は、凍えている。


沼を抜け出すきっかけを、他者に一方的に任せるのは間違っている。しかし依存は何においても自分一人じゃ抜け出せない根深いものだ。


誰か、助けて欲しい。これを言ってしまうのは何か矛盾してしまっている気がする。とはいえお酒が入って本能が浮き彫りになっている今にこの言葉を打ててしまっているのは、その言葉があまりにも本心すぎるからだと思う。



妄想だけの世界。全て、現実に。


落とし込めなかった未来の自分は、きっと後悔して、恐怖の渦の中この世を去るのであろう。




うーん。遊生夢死は、避けたいよな〜。



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