映画「桐島、部活やめるってよ」感想

 この映画のクオリティの高さを担保する最大の要素は、その風貌を見た瞬間に彼らがスクールカーストのどこに位置しているかがわかるという、キャスティングの完璧さだろう。その完璧なキャスティングを下敷きに、スクールカーストのあらゆる層に対して冷徹なまでに中立的にカメラを向けた映像が、息を飲むほどの完全さを保った構成で一糸乱れず進行していく。

 しかし、それが最後の最後で大きく崩れてしまうのは、リア充と呼ばれる人間たちよりも実はおたくたちの方が充実しているんだよという、かすかなほのめかしを行なってしまったせいだろう。何でもできるがゆえに何も選べないスーパーマンが、カメラを向けられたことで自分の中にある空虚に気がつく。その気づきは、同じスーパーマンでありながらひとつを選ぶことのできた誰かの崩壊を前提としていた。あのシーンが何者にもなれないことを自覚しながら充足している誰かと、何者になるかを選択できずに満たされない誰かの対比というのは理解する。

 けれど、撮影側が少し溜飲を下げている感じが伝わってきてしまうのがよくない。この映画に激賞が多く見られるのも、結局、エインターテイメント界隈へ漂着するのはスクールカーストの最下層にいた者たちで、やはりラストシーンに溜飲を下げたというのが大きいんじゃないのと、勘ぐってしまう。かつて自分が被差別側にいた身分制度があったけど、それは時限的なものに過ぎなくて、そこでの優劣なんて何の根拠もないんだよ、という裏メッセージに全力で同調することでかつての復讐に代えているというか。

 でも、まあ、ちょっと強くおたく礼賛臭のしたラストをまぜっかえしたくなったからのコメントであり、全体としては誰もが見るべき素晴らしい青春群像劇に仕上がっています。冒頭のキャスティングを含めて、大マスコミの大資本が制作に絡まなかったことが、この作品が傑作になるのを許したのでしょう。日本アカデミー賞なんていう、正気を疑うネーミングの田吾作賞は、この映画の素晴らしさに何も付け加えることができません。河原芸人のクリエイティブを権威様が札束で横ツラ叩いて追認してやってるみたいな構図には、さすがに少しイラッとしますけど。

 桐島、追記するってよ。つらつらとネトーサフィーンするに、桐島を頂点としたスクールカーストの崩壊という見方が結構多いのに驚く。これこそ、スクールカーストの最底辺にいた誰かの願望、あるいは勃起不全を抱えた中年の妄言ではないか。

 まず、スクールカーストが何かを定義しよう。それは洋の東西を問わず、最も卵子の数が多く最も精子の量が多い時代の、セックスアピールを絶対基準としたヒエラルキーのことだ。作中、映画部の面々は言動ぎこちなく、空気の読めない存在として描かれる。セックスを求める本能が達成されないことに薄々気づいており、それを理性で抑圧しようとしているからだろう。象徴的なのは、神木君の演じる映画部の部員が廊下を走るシーンである。物語の後半で、バスケ部の部員たちが屋上へと走るシーンと比べてみて欲しい。自分の身体を自分のものとして使えていない感じが、痛いほど伝わってくる。これが本当に演技だとするなら、彼は素晴らしい俳優だと思う。

 セックスという未知に挑むに際して、スポーツができるとか身体をうまく使えるとかいうのは男女双方にとって非常に重要なことで、ゆえにこの年代は「言葉を必要としない、しなやかなけものたち」が作中での台詞通り「セックスしまくり」なのである。つまり屋上での騒擾を契機に、映画部の面々が帰宅部のスーパーマンと同じほどセックスの機会に恵まれるようにならなければ、スクールカーストが崩壊したとはとても言えないのである。

 スクールカーストの頂点たちはこの映画を見た後、「なんか、なんも解決してなくない?」「そんなことよりおれ、腹減ったよ。焼肉でもいこうぜ」「えー、なんかエロいこと考えてるでしょー」などとやりとりし、永久に自分たちが見た内容を忘れてしまうだろう。この映画に意味付けをするのは、やはりスクールカーストの底辺たちだけであり、橋本愛の意味ありげな視線に虚しい希望を生きながらえさせながら、ツイッターに長文の感想を投稿したりするのである。

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