映画「河童とクゥの夏休み」感想

 ルパンを作った後の宮﨑駿と、クレしんを作った後の原恵一。作り続ける強度という意味で何が二人を分けたかと言えば、アニメーション技術を追求するか、作品のテーマ性を追求するかの一点であろう。

 結局のところ、「自然礼賛」と「人間賛歌」を語ってしまえば、つまり「生きることへの肯定」という究極の命題を語ってしまえば、我々はあとは何も語る必要が無く、その上で座して死を待つのでなければ、死そのものを語ること、すなわち宗教と近接した、普遍性とは真逆の方向へと向かわざるをを得なくなる。

 つまり、宮﨑駿は子を成しながらも「人類滅亡しろ」と心の底から唱えるからこそ、未だ作り続けているのであり、原恵一は子を成す前から「人間って、素晴らしい」と気づいたからこそ、もう作ることへ執着する必要が無くなってしまったのである。これはつまり、MMGF!後のよい大人のnWoにも似た、初期動機の消失と言えるだろう。

 あと、作品への思い入れが強すぎて、それぞれのシーンがわずかずつ冗長になって、作品全体を不必要に長くしているなあ、と感じた。それと、もし宮﨑駿が娘を授かっていたら、作ることへの初期動機は消滅していただろうなあ、と思った。

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