追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」
*以下のリンク先を読んでおくと、呪いの効果が高まります。
アニメ「2021年のエヴァンゲリオン」雑文集(1/25~3/5)
旧劇のときにはこの世にいなかった人と席をならべて見て、終わったあとはいっしょに少し話をして、本作を目にすることのないまま、この世を去った人たちに思いをはせました。旧劇からのファンと新劇から入ったファンでは、シンエヴァの受け止め方はかなり違うだろうことは理解しています。なので、ファースト・インプレッションでの言い過ぎをまず少し修正しておきますね。
「一般的な映画としては佳作から凡作の間くらいかもしれないが、エヴァンゲリオンとしてはゴミ」
2時間35分の半分ぐらいを過ぎたあたりから、もう腕時計ばっか見てました。私小説とプロダクトを両立するダブルエンディングは儚い妄想であり、「One Last Kiss」と「beautiful world(da capo ver.)」もスタッフロールで2曲続けてベタッと流すだけで、作劇と関連した効果的な使われ方というのはありませんでした。
昨年、先行的に公開された冒頭10分の映像を見たとき、もしかすると「破滅を目前にした人類の共闘」、あるいは「エヴァ世界の拡充(GガンダムならぬGエヴァ!)」を目的としてパリが舞台に選ばれたのではないかと少しだけ期待していましたが、まったくそんなことはなく、ただエッフェル塔をFATALITYとして用いた戦闘を描きたかっただけで、ナウシカの再アニメ化でクシャナ殿下のこのアクションだけを映像にしたいと宮崎御大に申し入れて、「オマエはそんなことだからダメなんだ!」と叱られたときから、1ミリも前進していないことがわかりました。
序盤では、エヴァQにおいて語られなかった舞台の裏側にあったものを丁寧に描写していこうとするんだけど、テレビ版で言うところの3人目の綾波を主役として「となりのトトロ」をコピーした田舎ぐらしを延々とやる。夏休みに帰省する両親の実家の大家族が、人生の幸せやまっとうな人間のイメージとして提示されるのって、補完時のゲンドウの語りにも通じていきますけど、あまりに昭和的で安直すぎませんか。田舎の大家族から離れて都会に出た核家族の子どもの、さらに子どもである若いファンが唐突すぎる「里山生活」の描写をどのように見たのかには興味があります。近年の朝ドラが描く戦前から戦後にかけての農村のイメージの中に、ヤマト以降に顕現した特殊性癖であるところのプラグスーツを着たままの綾波がウロウロ歩いてるのは、ほとんどギャグにしか見えませんでした。奥さんの影響を受けた、モノ余りカネ余りの都会人だからこそ可能な、ファッションとしてのロハス&ビーガン生活に、監督はきっと脳髄までどっぷり浸かっているんでしょう。新劇内のテーマとしては、すでに破のスイカ畑のシーンで「土のにおい」として過不足なく示されていた中身であり、それを延々と薄めて再提示しているに過ぎません。
以前、エヴァQについて「依拠する現実を失ったがゆえの、リアリティの底割れ」と指摘しましたが、そこへの反省(オア、反発)から現代の都市ではなく昭和の田舎を寄る辺としたのは、これまでの世界観からはひどく浮いてしまっています。「出されたものを食べないのは、失礼じゃないか!」とシンジを叱りつけるトウジの父親なんて、宮崎駿作品を模した亜流みたいなキャラでした(ゲド戦記かよ!)。素朴な疑問なんですけど、たった14年で家の内装があんなに古びて詫びた感じになるものなの? たった14年であんな老若男女そろったコミュニティが形成できるものなの? トウジが村のために人を殺めたことをほのめかすような台詞があったり、監督の中で「戦争帰りの殺人(に傷つき、悔いている)者がすぐそばで暮らす昭和」が聖域として極限に美化されていて、材料をぜんぶ使い切った後で最後の引き出しを開けたら、少年時代の原風景的なイメージとしてそれが出てきた可能性はあります。
数分の描写しかないミサトと加持の子どもってのも唐突で、のちにシンジとの和解を演出する目的で、作劇のために置かれた書き割り以上には感じられません。「Qのミサトさんがシンジに冷たい態度をとっていた裏には、こんな葛藤があったんですね」とか感動している向きもあるようだけど、それは逆なんですよ。「Qのミサトの態度を観客に納得させるためには、どう演出したらいいか?」の設問ありきで、回答はどれもこれも9年を費やしたあとづけの言い訳ばかりじゃないですか。荒れ狂うDV夫にしこたま殴られたあと、優しく「ゴメンね」とささやかれながら手当をされて傷が癒えたとして、殴られた事実は消えないし、夫の急な変貌に妻は恐怖をしか感じないでしょう。自分でマイナス100にした状況へ2時間35分かけて少しずつ他所様と過去作から引いてきた水を注いでいって0に戻すって、こんなひどいマッチポンプ見たことないですよ……いま書いてて、いや、前に見たことあったなーと思い直しました。
エヴァQとシンエヴァの関係は、スターウォーズで言うところの「最後のジェダイ」と「スカイウォーカーの夜明け」の関係と酷似しています。他者の意見を聞き入れない自己陶酔的な思い込みの暴走で、それまで積み上げてきた歴史ある作品の舞台をちゃぶ台がえしでグチャグチャにしたのを、続編で本来的には不要の長尺を使って丁寧にまた一から積み上げ直して、なんとか無様ではなく終わらせる形だけを作ったというあのやり方で、盛り上げようとするシーンはことごとく過去作のコピーなところまでソックリです。スターウォーズの方は8と9が別々の監督だったので、ライアンへの恨みとエイブラムスへのねぎらいという感情にそれぞれ落ち着き(け)ましたが、エヴァに関しては自分でちらかしたのを自分でかたづけて、「えらいねー」と取り巻きの女性に頭をなでてほめてもらう得意顔の子どもがいるようにしか見えません。しかも、脱糞後の尻をふくだけの行為に「落とし前をつける」とか、まさに昭和任侠モノの語り口でカッコよさげに宣言されても、どんな共感が生じるっていうんですか。
本作はQの挽回と新劇の総括として、批評家連中が旧エヴァと関連させて語りやすい要素をストーリー全体のそこここにまいてあって、「あ、これはあれとからめてこう語れる!」という喜びがきゃつらの好印象の正体で、そこで話される内容は昔からのファンの受け止め方とは何の関係も連絡もありません。監督は外部への発信や折衝について専属の担当を置いてやらせてるみたいですけど、今度はシンエヴァに関するファンとのコミュニケーションを批評家たちにやらせようってわけです。自分の口で語りさえしなければ、間に入った人間の「勘違い」で後から「解釈」の修正がききますから。これ、実に日本的な忖度のシステムで、トップの真意を限られた取り巻きしか知らされないことで形成する権威の仕組みなんです。あんまり詳しく語ると怖い人が来るので短く言うと、「御簾ごしのミカド」を源流とする本邦に特有の土人的な支配構造です。今回、かなりそこを意識的にやっていて、挑戦者だったエヴァが批判を許さない権威者になったことをまざまざと見せつけられました。
そして、中盤でシンジが再びブンダーに戻ってから延々と続く戦闘シーンを、楽しんで見ることのできた昔からのファンはいったいいるんでしょうか。次々とブンダーの姉妹艦ーー見た目の違いはほぼないのに、出てきた瞬間に名前を言い当てるリツコ。「確か4番艦があったはず」の台詞の直後に真下から4番艦がぶつかってくるの、笑わせる以外の演出意図は無いですよね?ーーが現れて、どれだけ被弾してもダメージ描写が皆無の緊張感に欠ける砲撃戦を繰り返すのもそうですが、Qの段階ですでにお腹いっぱいのアスカとマリによるオレツエエ・バトルを、喉の奥にじょうごを突っ込まれたガチョウみたく流し込まれ続ける苦痛ったらありません。ギャンギャン叫びながら目から極太バイブみたいのを抜き出したり、もう何ひとつ画面と気持ちがシンクロする要素がないまま、Qで指摘した魅力絶無のスーパーロボット・アクションでストーリーが進んでいるような雰囲気だけを醸成していきます。もう言うだけヤボですが、工業の壊滅した世界でのヴィレ側の修理・補給問題は農村パートで不充分ですけど示されましたが、おじさんとおじいさんだけの組織であるネルフ側のそれらについては、完全に説明を放棄していましたね。
終盤の人類補完計画の下りは、旧劇がシンジを通した全的な補完だったのに対して、ゲンドウ、アスカ、カヲル、レイを列に並ばせて順番に補完しては退場させる同人誌みたいな中身なんですけど、絵ヅラを旧劇から借りてきてアップグレードしようとして、大失敗している。コピーに感情とセンスをブチこむことで作品を作ってきた人物が自作のコピーに手を出した結果、若かった頃の己の感性と向きあって昔からの客に新旧を比較されるはめになってしまった。率直に言って手法だけがトレースされてて、音と画面は豪華になったのに、感情とセンスは劣化してしまっている。実写ふうに置き換えられた巨大アヤナミの顔ーーたぶんシンジの声優の顔演技が下敷きにあり、ツイートの「未体験の試練」がこれーーが結婚披露宴の高砂の金屏風みたいな背景で出てくるの、もうこのへんから疲れてきて真面目に作ってないでしょ? 公開前に不安を吐露した、第三新東京市で行われる初号機と13号機のバトルは、自社のCG班がいつまで経っても期待通りのモノを上げてこないのに業を煮やして、テレビ版の最終2話と同じ「赤点とるくらいならマイナスにしてやる」という心境になって、その後のギャグみたいな場面ーーミサトのマンションや学校の教室でエヴァが戦うーーを含めて、ヤケクソで演出をつけたようにしか見えませんでした。巨大アヤナミの頭部めがけて小さなブンダーが突撃していく横シューみたいな画面は超兄貴そのものの絵ヅラで、これも笑わせにきてますよね? 旧劇とは比較すべくもない、しまりのない、だらしのない、緊張感に欠けるシーンの連続です。
ねえ、CG班の人たちは、何の進歩もないままずっと給料はらってもらって、あのエヴァを時代遅れのポンコツな仕上がりにして、いったいこの9年なにしてたの? 「俺たちの親分に恥をかかせちゃいけねえ!」みたいな昭和任侠の気概をだれも持たなかったの? オーケーもらってホッとしてんじゃねえ! あきらめられてんだよ! 最高にカッコいい絵作りをしてきた編集とコラージュの極みにいる人物が、かつてのようには良い素材を与えてもらえなかった末の、昔だったら絶対にオーケーを出さないような自棄に見えるシーンがいくつかありましたが、カラー設立から10年以上が経過したのに、監督の眼鏡にかなう人材は育ってないんでしょうね。それもあってか、エヴァをたたむのに監督の私小説的な心情を用いるしかないという結論こそ旧劇と全く同じですが、映像的には「まごころを、君に」の自己模倣に終始するわけです。「コピーに魂を込めることでオリジナルを超える」人が、還暦を迎えてアニメ界の大御所になった結果、周囲を見渡したらもうコピーする先が無くなっていたので、自分の過去作をしこしことコピーし始めるのを劇場の大画面で見せられるのには、もはや悲しみしかありません。しかしながら、旧劇で「甘き死よ、来たれ」が鳴りはじめた直後の、各話タイトルと裏返しのセル画が連続で流れるシーンを、プロジェクターで撮影所の壁面へ映す演出ーー新劇のタイトルが追加されてるーーには激しい怒りが沸騰し、端的に「商業にまみれた人買いの汚い手で俺の旧劇に触るな、殺すぞ」と思いました。
そして、「己の人生をフィルムに熱転写する」人が、カネのかかった自費出版の私小説で最後に提示してきたのは、妻と出会うまでの己の精神史をゲンドウへと仮託した赤裸々な告白と、添い遂げられなかったかつての恋人と互いに別々の伴侶を持つようになってから交わす「好きだったと思う」「好きだったよ」という言葉、つまり旧劇の裏にあった泥沼の恋路の清算だけでした。アスカの声優との距離感がエヴァの終わりに当たって重要ということを半ば冗談みたいに話しましたけど、違う意味で的中してしまった形です。今回のアフレコでアスカの声優が監督からかけられたという「宮村がアスカでよかったよ」という台詞は、人生や人間関係のすべてを秘し隠さず、作品作りへ流用していくクリエイターとしてのおぞましさが最大級に伝わってきて、背筋に寒気が走りました。
ぴちぴちのラテックス・スーツに身を包みリアルよりのキャラデザで描かれた大人アスカ(MIYAMOOによるコスプレを意識させている)が例の砂浜に横たわっているのにシンジが「僕も好きだったよ」と声をかける場面には、「おまえら、こんなのアフレコの合間に喫茶店とかで二人きりでやれよ! 劇場の大画面で俺らに向けて中年のオッサン、オバハンの気持ち悪いやりとりを垂れ流してんじゃねえ!」と絶叫しかけました。ここ、怖いところだと思うんですけど、監督からの一方的な恋慕を、作中のキャラに「好きだった」と言わせることでまるで両想いだったみたいに改竄してるんですね。まさにエヴァンゲリオン・イマジナリーというわけで、パンフレット冒頭に寄せた監督の文章でも破の直後から、迷いなくQの世界観で続編制作を始めたことに「なっている」。「イヤな現実はエヴァに乗って変えてしまえばいい」じゃないですけど、ごまかそうとしてるふうではなく、強いイメージ力で本当にそう信じていることをうかがわせ、周囲にその誤認を正す人物はもういないのかと、ゾッと薄ら寒い気持ちにさせられました。
補完の終わりに、旧劇でセル画を裏返して撮影したのを業界の先輩から「凄まじい脱構築」と激賞されたのがいつまでも頭から離れないのか、今回も延期につぐ延期で作画は間に合ってるはずなのに、線画とラフによる制作の裏側を見せるんだけど、斬新だったのは当時だれもやらなかった初めての試みだったからで、25年を経た今ではもうマンネリ感しかありません。巨匠の手クセをみんなが「そうそう、これだよ、これ」って褒めそやす感じも気持ち悪い。前も言いましたけど、こんなの最初の相手が偶然スカトロマニアだったから成功した「sixty-nine中の脱糞」だって、だれか監督の頬を張ってでも止めてあげて下さいよ。旧劇の表現は尖りまくってて最高にロックでしたけど、シンエヴァは「アニメ映像の面白さ」とやらがもはや伝統芸能の域に突入してて、スローな雅楽って感じですね。
そして、真希波マリが何者であるか監督はずっと決めていなかったーーサブの監督に声優の演技プランを丸投げするほど無関心ーーのを、シンエヴァでとってつけたように安野モヨコとイコールの存在に変えてきました。つまり、多くの観客にとってどうでもいい中盤の派手なバトルは、かつての想い人といまの奥さんを大好きなロボットに乗せて戦わせるという、監督にとってだけ最高に気持ちいいゴッコ遊びだったことが明らかになります。まさに「最低だ、オレって」から1ミリも進展のない、オナニーによってしか作品を完成させることのできない開き直りを、再び我々は見せつけられたというわけです。そら、オールド・ファンの大部分が望む、シンジが初号機で大活躍という至極簡単なカタルシスを描けないのも、無理ないわ。だって、情けない還暦のオッサンが乗ったロボットじゃオナニーどころかインポでチンポさえ勃たんからな! おっと、失礼。
それと前も言ったけど、英語ってもう日本では人口に膾炙し過ぎて三周くらい回ってダサいってことにそろそろ気づこうよ。インフィニティ、アナザー、アディショナル、アドバンスド、コモデティ、イマジナリー……音の響きが自分にとってカッコいいって理由だけで使ってるでしょ? ファイナル・インパクトを批判されたからって、アナザー・インパクトやらアディショナル・インパクトやら、あのエヴァでセンスの無さとカッコ悪さに悶絶するときが来るなんて、思ってもみませんでした。
そしてエンディングの、故郷の街を実写で空撮しての結婚報告エンドって、「旧劇の『現実に帰れ』をすごく前向きにやってる!」みたいにニワカどもが騒いでますけど、そう読ませたいという意図が先行して、ひどく空疎で皮層的に感じました。結婚という営為の高揚感だけを描いて、異なる価値観の相手と相手の家族ごとなんとかやっていく苦しさみたいのはバッサリ切られてる(まあ、Qが結婚生活での苦難を表現していたのかもしれませんが……)。でも、結婚報告って相手の両親に会うときの方が感情の比重は高くないですか? それを奥さんの地元じゃなくて自分の地元を映して映画をしめてんのって、ああ、徹頭徹尾ジコチューの自分クンなんだなって印象しか残りません。「いい大学を出て都会で稼いでるのかもしれんが、結婚もせず子どももいないなんて、どこか人間的に欠陥があるんじゃないのか?」みたいな昭和の田吾作マウント、農耕馬の土くせえアオリに、あれだけ先鋭的なサイファイだったエヴァが25年を経てすっかり同調してやがるんですよ。「俺は結婚して救われたよ? 君がどうかは知らんけど、やってみたら?」って、思うのは勝手だけど、それを救済のメッセージとして伝えたいなら自分語りじゃなくて作品の内容で表現しなきゃダメじゃないですか。
20年前に結婚して、子供も二人いて、どっちもそろそろ成人を迎える年齢になって、マイホームのローンも返済し終わって、子育てもようやく終わりにさしかかってて、でもそんなのは社会的な皮一枚の外殻に過ぎなくて、オレの本質や魂の在り処とは何の連絡も関係もないんだよ! 現実の個人がどんな生活を送っているかとサイファイのセンス・オブ・ワンダーの間には何の連絡もないし、むしろ何か関係があったらダメなんだよ! SFファンなんだったら、アーサー・C・クラーク御大を見習えよ! マイナス100のオタクだった私が、結婚を契機に少しずつ昭和の「常識的な価値観」をおのれに注いでいって、今ではプラマイ・ゼロの真人間になりましたって、そんな情けないフィクションを堂々と書くなーッ(島本和彦の作画で襟をつかんでガンガン壁に打ちつけながら)! いいか、オマエが最後に観客たちへ提示したのは、だれかがオマエに「この種無しが!」と罵るのと同じ、やっちゃいけねえ類の倫理に欠けた下品なメッセージなんだよ! 旧エヴァでアニメのファンダメンタルになって、だれもちゃんとオマエを叱れなくなった、あるいは叱ろうとした人間を遠ざけた結果がシンエヴァの結末へそのまま表れてるじゃねえか! 還暦を迎えてんのにそんな貧相な社会常識しか持ってねえのかよ、クソが!
すいません、興奮のあまり少し、ほんの少しだけ冷静さを欠きました。ちょっと監督は妻という究極的には他人である存在に、レゾン・デートル(笑)を依存しすぎじゃないでしょうか。もし今後、仮に二人が破局を迎えるとしたら、次のエヴァが作られる土壌になるのは確実で、その内容も展開も完全に予想できますが、もはや私には関係の無いことです。奥さん、こんなふうに精神的に依存されてることを盛大に全国のスクリーンで公開されて、イヤじゃないのかなあ。わたしだったら激怒するけど、クリエイターなので気持ちはわかるって感じなのかしら。相手の感じ方を無視して、相手が喜ぶと思って、自分が愛情と信じるものを一方的に押しつけ続けるのって、25年前の想い人へのやり方からまったく進歩していないように思えます。わたしが今もっとも感想を聞きたいのは、横目に互いを見ながら最終回のご祝儀で好意的な感想に終始する自称エヴァファンどもではなくて、奥さんからですね。二人の間に子どもがあれば、監督は己の自我と子どもの自我を区別できず、幼少期には成長記録をドキュメンタリー映画で作るなど溺愛したあげく、思春期には支配的な毒親と化した可能性が高いでしょう。そして反抗する子どもへの感情を勝手にアニメ化して一方的な贖罪と考え、家庭内のことを全国公開された子どもはますます父親と距離を置いたことでしょう。
結局、エヴァはガンダムのようなプロダクトにはなれず、ロボットアニメなのに監督の私小説という正に人類未到のイビツにたどりつき、それは続編や派生作品にだれも手を出せない場所で、ここからはもう古典として消費されていくばかりかと思うと胸が詰まります。作中で「仕事」って言葉が繰り返されてて耳に残りましたけど、スタジオを残していくためには新劇でエヴァをプロダクトにしておかなくてはいけなかったし、新劇制作の初期動機はそれだったはずでしょう。エヴァを愛して貴方の下に集まった人々を庇護するために、エヴァをガンダムと同じものにすることこそ、貴方の本当の「仕事」だったんですよ。これから何年かが経過して、ジブリみたいにスタッフを首切りで整理して、著作権の管理会社として存続する未来がありありと見えます。新たな挑戦でクリエイターとして恥をかきたくない気分がまさった自分クンが、自分を慕って集まってきた人々の未来のためではなく、自分のためだけに旧劇へ依拠した無難ーーエヴァに無難なんて言葉を使うことになるなんて!ーーなやり方で新劇を終わらせようとした軌跡が、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のすべてです。
よかったところですか? 「終劇」の後にシン・ウルトラマンの予告を持ってこなかったのは、少しだけ大人になったのかなと思いました。私のようなこじらせたオールド・ファンを痛めつけ、失望させ、関心を無くさせるという意味をもあらかじめ織り込んで「さらば、全てのエヴァンゲリオン」と宣言していたのなら、監督の悪意は底抜けで、まったく大したものです。見事に、貴方の意図はかつてエヴァファンであった私の一部を永久に殺しましたよ。
想像するだにおぞましいことですが、再延期にあたって3月11日を新たな公開日に設定するプランも監督の脳裏をよぎったに違いありません。そうならなかったのは、監督が分別のある大人になったからというより、思いつきで「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」と東日本大震災をリンクさせようとしたことが、あまりに深く隠蔽しておきたい事実だからに他なりません。
10年前の今日、多くの生命が失われ、エヴァンゲリオンが壊れました。
どれだけ監督による正史が否定し、隠蔽しようとも、この事実が消えることはありません。私にファンとしての使命が残されているとすれば、この事実を語り部として後世に伝え続けることだけでしょう。あの偉大なエヴァンゲリオンの終わりが、東日本大震災に影響を受けたリブートの大失敗を自己回収する作品になってしまったこと、あの偉大なエヴァンゲリオンが持っていたポテンシャルが、過ちを認められない人物による自己弁護に消費されてしまったことは、本邦のフィクションにおける巨大な損失であり、心から残念でなりません。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の続きを見たかったと切望する死者たちと、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の続きを見たかったと切望する生者たちによって、この先も永久に呪われてあるでしょう。
拡散し、届いて、偽史として権力に焚書されることで、この呪いは完成します。どうか、私の想いが彼の元へと届きますように!
有志による英語版:[Full spoilers!] In Memoriam of "Shin Evangelion: Curse"
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?