映画「シン・ゴジラ」感想

 西日の差す四畳半の自室の辺縁をぐるぐる周回しながらする、齧歯類と猛禽類しか登場せぬポケットモンスター・ゴー(毛唐語で“CHINPOイッちゃう!”ぐらいの意)にも飽いたので、貴様ら大騒ぎのシン・ゴジラとやらをアイ・マックス(毛唐語で“AIが止まらない!”ぐらいの意)で視聴してきた。貴様らもご承知おきの通り、本邦の悲劇を気楽な創作に流用したエバー・キューなる凄絶の冒瀆を世に問うたあげく、それへの非難から逃れるためのファッション鬱で周囲の同情さえ買おうとしたカントク(cunt-Q)を所謂絶許(いわゆるぜつゆる、小粋なジャパニーズラップの一種)だった小生である。鑑賞前は1メートルはあろうかというリーゼントに2メートルはあろうかという長ランで、前の席でブヒブヒゆうおたくの背もたれに両脚を投げ出し、粗探しでクソミソにけなしてやろうとの構えであった。しかしながら2時間後には、背筋をすっくと伸ばしたゴスロリ美少女が真剣な眼差しでそこに正座していたのである。前の席のおたくは別の意味でブヒブヒゆっていたので、一瞬だけヤンキー姿にもどってチョウパンしておいた。

 もう公開から1週間も経過しておるので、おそらくどこかですでに語られてしまっている内容かも知れぬ。しかし、だれが言うかが問題となる時代であるので、屋上屋を架すを承知で予のお気持ちを貴様らに述べたい。ゴジラというキャラクターの本質とは、無意識の奥底でつながる我々全員の足元を浸す水のような、民族的とさえ言える恐怖とその共有である。先の戦争において死と破壊を共有した人々にとって、初代はひとつの映画を越えた滅びの追体験となった。我々は先の震災による国難をすべからく(皆を意味するエヴァ語)共有するがゆえに、今作において初代を視聴した人々がどのようにゴジラを眺めたかをついに知ることができたのだ。

 また、本作では冒頭より連続する会議場面が出色の仕上りである。その面白さは本作のテーマを補強しており、否応にカメラの中心に置かれる主人公格への物語補正を弱め、登場人物たちの扱いに一種の公平性を担保する機能を果たしている。いまは亡き小鳥猊下の名同人誌「MMGF!」に、この構造の類似を指摘しておきたい。かつて、同作者がノーラン監督のダークナイトとその続編、ライジズに対して述べていたことは、エヴァQとシン・ゴジラの関係性にも当てはまるだろう。震災の悲劇を皮相的に流用したエヴァQに対して、今作はゴジラという舞台装置を、明確な意志をもって利用することで、本邦の抱え続けている長い国難を描き切った。エヴァQでの批判がシン・ゴジラにつながった事実は前者のファンにとって非常に苦々しいが、私はここに監督の真摯な反省を見る。

 また、無人在来線爆弾など終盤のCGの不出来を批判する声があるようだが、それは制作側の意図を汲むことができていない。現実の重さを虚構の軽さの側に引き寄せるというメタ的な方法でしか、ゴジラという厄災に対する勝利を日本に与えることができなかったのである。しかしながら、次の国難を望むことは決して無いと言いながら、ゴジラがその時代が抱える恐怖の象徴として都度、復活し続けるメタ的な可能性の土壌が生まれたことに関しては、たいへん喜ばしい。そして、シン・ゴジラを経たシン・エヴァンゲリオンにおいて、生みの親から長く放置されたあの少年が、ついにはトラウマ電車を降りることをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。皆様の理解を得られることを、切に願っています。

  シン・ゴジラ追記。まだ2回しか見ておらぬ不熱心なカントク(Cunt-Q)ファンだが、浮かれ騒ぐ交尾犬の貴様らにバケツで水をぶっかけ(Bukkake)ておきたい。東日本大震災に感情をゆさぶられ、クリエイターとしてこの国難を作品に反映させねばならぬと奮い立ち、自らに引き出しの無い、現実に依拠した完全なオリジナルをぶちあげたがゆえの大失敗作、エバー・キューが無ければ、シン・ゴジラの成功は存在せぬ。「自らの感情」と「オリジナルへの色気」を完全に廃し、彼の本来である「編集の執拗さ」と「コピーのリファイン」へ徹したからこそ、シン・ゴジラは空前絶後の大傑作となったのだ。頼みにならない己の主観、独創性のつまらなさ、この2つのマイナスがかけ算となり、プラスへと転じたのである。エンターテイメント作家でありながら、すべての作品に私小説的な動機が内在するところがカントクの魅力であり、シン・ゴジラを絶賛する貴様らは、エバー・キューを4回も劇場で見た俺様の偏愛にこそ、まずひざまずくべきである。

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