小説「少女保護特区(第5幕)」リライト版

「あ……」
 さくら色のくちびるから吐息のような声をもらして、少女が目をあける。
 ほおにはひとすじ、涙のあと。
 どうやら、かなしい夢をみていたようだ。
 ぼくは親指でやさしくほおをぬぐってやる。マシュマロのようなやわらかさが、おしかえしてきた。
 さりげなく、はだけた両脚にスカートをおろしてやりながら、そっとたずねる。
「夢を見ていたの?」
 ぼんやりとみひらかれた少女の瞳に、焦点がもどってくる。
「こわい夢をみていたの」
 安堵の表情が、ふたつの泉に満たされてゆく。
「ヨくんがいなくなってしまう夢……あたし、ヨくんがいなくなったら、きっと胸がさけて死んでしまうわ」
 ぼくはほほえみながら、少女のひたいをかるくこづく。
「そんなこと、口にするもんじゃないよ」
「だって、ほんとうにそう思ったんですもの」
 少女は心外だ、とばかりに口をとがらせる。
「言葉にしたことは、本当になってしまうからね」
 感じやすい瞳が、みるみるうちにうるんでゆく。
「あたし、もうぜったい言わないわ。だってほんとうにこわかったんですもの……」
 しゅんとして、肩をおとす少女。
 お灸がききすぎたかな、とぼくはすこし後悔する。
「だいじょうぶだよ、ムンドゥングゥ。ぼくはずっときみのそばにいるから」
「ほんと? ぜったいぜったい、ほんとうに?」
 ムンドゥングゥが目をかがやかせる。
「ああ、ほんとうだよ。ぜったいぜったい、ほんとうだ」
 この先、どうなってしまうかなんて、だれにもわからないけど――
 いまの言葉だけは、ほんとうだ。
「ねえ、ヨくん」
 安心したのか、ムンドゥングゥがあまえた声をだす。
「ひとつおねがいがあるの」
 うわめづかいにみつめてくる少女に、ぼくはうろたえてしまう。
「ぎゅーってして、いい?」
 だきつきたいとき、いつもこうやってきいてくるのだ。
 なによりぼくの心臓のために、いつもははぐらかすんだけど――
「いいよ」
 罪ほろぼしをしたいような気持ちになって、うなずく。
 ムンドゥングゥはおそるおそる、といったようすでぼくの背中に両手をまわした。
 最初は、天使のようにかるく。
 それから、息がくるしくなるほどきつく。
「ち、ちょっと、苦しいよ、ムンドゥングゥ」
「だって、まだ夢がさめてなかったらどうしようと思って」
 ムンドゥングゥが、ぼくのシャツにうずめた顔をあげる。
 あんまりつよく顔をおしつけすぎたのか、ほおにボタンのあとがついている。
 ぼくは思わず苦笑してしまう。
 そこぬけの無邪気さに、なんだかまた、からかいたいような気持ちになる。
「もしかしたら、まだ夢の中にいるのかもしれないよ?」
「あら、それはないわ」
 ムンドゥングゥはうけあってみせた。
「だって、ヨくんのにおいがするもの。夢の中ではにおいなんてしないでしょう?」
 とつぜんのふいうちに、顔が熱くなっていくのがわかる。
「ムンドゥングゥ、ヨくん、晩ごはんができたわよ。冷めないうちに食べにいらっしゃい」
 リビングから救いの声がかかる。
 ぼくは顔を見られないように、たちあがった。
 ムンドゥングゥは、すっと、手のひらをぼくにすべりこませてくる。
 きっと愛らしいその顔には、いたずらな笑みが浮かんでいるのにちがいない。


 ぼくの名前は予沈菜(ヨ・チャンジャ)。大陸うまれの日本人だ。
 ワケあって、ムンドゥングゥの家にいそうろうをさせてもらっている。
 グウーッ。
 1ぱい目のごはんを食べたのにもかかわらず、ぼくのおなかが音をたてる。
 くすくすと笑いだすムンドゥングゥ。
「育ちざかりですものね。好きなだけ食べていいのよ」
 ためらうぼくの茶碗へ2はい目をよそってくれた美人は、ムンドゥングゥのお母さん。
 ほとんどムンドゥングゥとかわらない年にみえる……と言ったらいいすぎだけど、すごくわかくみえるのはほんとうだ。
「そのとおり! 私がきみくらいのときは、どんぶりでかるく4はいは食べたものさ」
 がっはっはっ、と豪快に笑いながらわりこんできたのが、ムンドゥングゥのお父さん。
 あさ黒い健康そうな肌は、テニスのインストラクターをしているからだ。現役時代は、ずいぶんとならしたらしい。
 ふたりともいそうろうのぼくに、ほんとうによくしてくれる。食卓ではなんとなくだまってしまうけど、それは気まずいってわけじゃない。幸せな家族の時間を、ぼくなんかが邪魔しちゃわるいような気になるからだ。
「む、どうした。すこしもごはんがへっていないじゃないか」
 娘の茶碗をみとがめて、お父さんが心配そうに顔をちかづける。濃い眉毛のかたちがムンドゥングゥとそっくりで、ふきだしてしまう。
「うん、なんだか胸がいっぱいで、のどをとおらなくって」
「むかしから、この子は食がほそかったから」
 手のひらをほおにあてるしぐさがかわいらしいお母さん。
「生まれたときもふつうよりちいさくって、小学校にあがるまでバナナをはんぶんしか食べられなかったのよ」
 ぼくを見ながら、苦笑する。
 たちまち、ムンドゥングゥがまっかになった。
「もう、お母さん! ヨくんの前でそんなこと言わないでよ!」
 お父さんとお母さんが、ほう、と声をあげた。そしてふたりで顔をみあわせて、意味深な目くばせをする。
「あー、母さん。ヨくんの茶碗がもうあいているじゃないか。山もりにしてあげなさい、山もりに」
「はいはい」
 お母さんがふくみ笑いを隠しながら、炊飯器をあける。
「あら、やだ」
 両手をほおにあてるしぐさが、妙にかわいらしい。
「白いごはんがもうないわ」
「なんだ、もっと炊いておかなかったのかい?」
「ほら、うちはムンドゥングゥひとりでしょう? 十代の男の子がどのくらい食べるのか見当がつかなくって」
「そいつは困ったな」
 心の底から困ったという表情で、腕組みをするお父さん。筋肉がもりあがっている。テニスのインストラクターというよりは、重量上げの選手みたいだ。
「いいわ、ヨくん、あたしのをあげる。だってきょうはもう食べられそうにないから」
 茶碗をさしだすムンドゥングゥ。
「あげるって……半分も食べてないじゃないか。もうすこし食べなよ。のこったときに、もらってあげるからさ」
 ぼくの言葉に、ふるふると首をふる。
「ううん、もうきょうはごはんがはいる場所がないの」
 手のひらで胸をおさえながら、ほほえんだ。
「だって、しあわせで胸がいっぱいなんですもの」
 なんのくもりもない、とびきりの笑顔。
 ぼくはまたしてもふいをつかれ、ごはんをうけとってしまう。
「なんだ、しあわせで食べられないなら、この家じゃ、飢え死にするしかないぞ」
 がっはっはっ、とお父さんが笑う。
「じゃあ、ムンドゥングゥがすこしでも食べてくれるように、おこづかいをへらしましょうか」
 おっとりと、お母さんが加勢する。
「もうっ、またふたりでからかってるでしょ!」
 にぎやかな家族のやりとりを聞きながら、ぼくはなんだかみちたりた気分でごはんを口にはこぶ。
 あ。
 これもやっぱり、間接キスになるのかな?


「ちょっと仕事をもちかえってるんだ。顧客のリストを明日までにしあげなくちゃならない。おそくなると思うから、母さんも先に寝てていいぞ」
 早々に食事をきりあげると、エクセルは苦手なんだよと頭をかきながら、お父さんは二階のじぶんの部屋へひきあげてしまった。
 テーブルにはムンドゥングゥの焼いたパウンドケーキが、半円だけのこっている。
 ずず、と日本茶をすする。濃いめに煎れるのが、この家の流儀みたいだ。
 どうやら、すこし食べすぎてしまったらしい。ときどきこみあげるおくびに、食べものがまじってる気がする。
 からだはすっかり重いが、気分は上々だ。ソファに身をあずけながら、やくたいもないテレビ番組をながめるのも、これはこれでわるくない。
 とくに、かわいい女の子といっしょならね。
 ムンドゥングゥがぼくのおなかを枕がわりにして、横になっている。クジラがぐるぐるまわる音がするよ、とつぶやきながら、目はとろんとしている。
 ときどき、かくっと首がおちて、いまにもねむりそうだ。ねむったムンドゥングゥをベッドにつれていくのが、最近ではぼくの日課のようになっている。
 いとしさにたまらなくなって、そっと、ちいさな頭に手をおこうとしたそのとき――
 ドーン。
 天井から大きな音がした。
 おどろいたムンドゥングゥが、猫のようにはねおきる。
 ドーン。またひとつ。
 そして、しずかになった。
 顔をみあわせるぼくとムンドゥングゥ。
 耳をすませると、ぎしぎしという音とともに、天井から細かなほこりが落ちてくるのがわかる。
「お父さんの部屋だわ」
 言うがはやいか、ムンドゥングゥはかけだしていた。
 お父さんのことが心配なんだろう。なんて親孝行な娘なんだ。
 思わず感動して、うんうんとうなずいてしまう。
 が。
 ぼくは事態を思いだすとはっとして、あわててあとを追った。


「お父さん、あたしよ、ここを開けて!」
 ちいさなこぶしをふりあげて、ムンドゥングゥが扉をたたく。
 涙をいっぱいにためて、階段をあがってきたぼくにすがりついてくる。
「たいへん、お父さん、くるしそう。どうしよう」
 扉に耳をあてると、たしかに苦しそうなうめき声がする。
 ドアノブをまわそうとするが、内側からロックされているらしい。
「すこしはなれていて」
 ドカッ。
 ムンドゥングゥをさがらせると、扉にキックする。
 足はじーんとしびれるが、びくともしない。
 さらに大きく助走をつけ、2発目のキックをおみまいする。
 ドカッ。
「は……づッ……」
 全身の骨が軋み、砕ける音。
 灼けるような塊が喉めがけて駆け上がる。
 やはり、僕では無理なのか。失望より先に浮かぶのは、自嘲。
 はは、最後の最後まで、ダメなヤツだ。いつだってオマエは途中で諦めちまう。
 そして、途切れゆく意識の中で浮かぶのは――
 儚げな、ムンドゥングゥの横顔。
 右手を壁面に喰い込ませ、爪の剥げる痛みに我を踏み止まらせる。
 ゴクリ。僕は味蕾を浸す熱した海水を飲み下した。
 まだだ、まだだ。
 いま、ここで倒れたら――
 誰がムンドゥングゥを助けられるっていうんだ!
 オマエはこんなものか! 弱い自分を叱咤する。
 俺は知ってるぜ、オマエはこんな程度じゃないはずだろ?
 力を出せ!
 力を出せッ!!
 枯れた井戸の底が割れ、奔流の如くエネルギーが吹き上がるイメージ。
 精度を上げる視界。およそ、人の視力では有り得ない程の――
 扉の木目に沿って、黄金の光線が走る。
 僕はすでに、“それ”が粉々に爆ぜる未来を“知って”いた。
 一度は砕けたはずの右足に、再びパワーが漲ってゆくのがわかる。
 確信という名のボルテージは、いまや最高潮だ。
 そして、3発目のキック。
 ズボアァッ。
 それは名称を同じうするだけの、全く別次元の技と化していた。
 バリバリバリ。
 音の壁を遥か置き去りにする速度。
 金剛石を粉砕せしめる莫大な威力。
 がつッ。
 なんと、扉は健在。
 だが、技の威力も減衰していない。
「当てがはずれたな! 悪いが、俺のキックの半減期は二万四千年だぜ!」
 僕は頭の中だけで考え、実際言ったことにした。
 その方が気分が盛り上がって、遥かにパワーが増す気がするからだ。
 最初の衝撃波は堪らず水平方向へ逃げ、中規模な地震の如く家屋を揺籃せしめる。
 やがて扉の硬度と技の威力が同等のエネルギー波として干渉し合い、傍目には完全な均衡を生じる。
 だが、分子レベルの振動は静電気を生じさせ、それはやがて複数のボール・ライトニングと化して扉と僕を取り囲んだ。
 正に、天然の要害。ここからは鼠一匹、逃げられない。
「小癪な童め!」
 僕は自分で言って、扉が言ったことにした。
 その方が気分が盛り上がって、遥かにパワーが増す気がするからだ。
 僕はニヤリと嗤う。
「さて――もう暫くだけお付き合い願いますよ」
 こうなりゃ、もう技は関係ない。相手さえ関係ない。
 肉体と魂の全てを盆に乗せて、神サマに裁定してもらうだけだ。
 俺と扉――
 どっちが上?!
「うおおおおーッ!」
 メリメリメリ、ズドーン!
 予想に反して、ちょうつがいだけがふきとんだ。
 廊下に女の子座りで雑誌を読んでいたムンドゥングゥが、顔をあげる。
「お父さん、しっかりして!」
 倒れた扉をふみつけに、部屋へとびこんでゆく。あとを追うぼく。
「きゃあ!」
 そこには、しんじられない光景――
 お尻をまるだしにしたお父さんが、ベッドで茶髪の女の子にのしかかっていたのだ。
 ちいさくふるえるムンドゥングゥを、まもるようにだきかかえる。
 ぼくはふたりをキッとにらみつけた。
 お父さんはおどろいた顔で、こまかく腰をうごかしている。
 女の子はといえば、まだらに茶色くなった髪の毛に、よれよれの制服。まるで野良犬みたいだ。
 お父さんのうごきにあわせて茶色い髪をばさばさとゆらしながら、めるめるとメールをしている。
「あなた、いったいこれはどういうことなの!」
 げ、まずい。
 うしろには、まっさおになったお母さんがママレモンの泡もおとさずに立っていた。
 わなわなとふるえ、手にもったお皿がまっぷたつに割れる。
「ちかごろ、すっかりごぶさたと思ったら、こういうことだったのね! わたしをだましていたのね!」
「ち、ちがう、それは誤解だ」
 さすがに、腰のうごきをとめるお父さん。
「誤解も六階もないわ。もう、りこんよ! りこんよ……」
 エプロンに顔をうずめながら、お母さんは背をむける。
「待つんだ、グィネヴィア」
 声のトーンが変わっている。
 お母さんの肩がびくり、とふるえた。
「まだ、わたしをそう呼んでくれるのね、アーサー」
 前をまるだしにしたまま、お父さんがベッドを降りる。
「どうかわかってほしい。わたしにとって、おまえは神聖すぎる誓いなんだ。あまりにも清らかで、わたしぐらいでは汚すことのかなわない。わたしの汚れを、おまえに注ぐなんて、おお、考えるだに恐ろしいことだ」
 涙を流しながら、お母さんがひざまずく。
「ああ、ああ、あなた! 浅はかなわたしをゆるしてください! あなたの苦悩を知らず、毎晩を売女に注がせていたわたしの愚かさをゆるしてくださいますでしょうか? そして、お願いします、どうかわたしを抱いてください! わたしはあなたに高められこそすれ、汚されるだなんて思ったこともありませんわ!」
 ふたりは熱烈に抱きしめあうと、みているぼくたちのほうが赤面するような口づけをかわした。
 お父さん――いや、アーサーはグィネヴィアをかかえあげると、優しくベッドへ横たえた。
 そう、まるでナイトがプリンセスにするように。
「ねえ、ふたりだけにしてあげましょう……」
 ムンドゥングゥが微笑んだ。
 なぜか、とてもさみしそうな微笑みだった。
「ほら、あなたもいっしょにいくのよ!」
 そう言って、茶髪の女の子の手をひっぱる。
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
 伝説の王と王妃は、千余年の流浪を経て、いまお互いの正統な持ち主の元へと還ったのだ。
 剣が必ず、収まる鞘を持つように。


 ぼりぼりと茶色い髪をかきまわしながら、女の子がごちる。
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
 聞こえないふりをした。
 夜の戸外は、夏だというのに冷気をふくんでいて、ほてった身体に心地いい。
 かすかに聞こえるのは、アーサーとグィネヴィアのむつみ声だろうか。
「そんなに走るとあぶないよ」
 はしゃぐムンドゥングゥに声をかける。
「だって、夜のおさんぽなんて、ほんとうにひさしぶりなんですもの!」
 スカートに風をはらませて、くるくると回転する。
「わたし夜ってだいすきだなあ。だって、もうあしたがはじまってるみたいで、なんだかワクワクするの。ヨくんは、そんなふうに考えたことない?」
 ぼくはちょっと考えて、
「ないなあ。明日がこなければいいっておもうことは、むかしよくあったけど」
「ふーん、フコウだったんだ」
「どうかな。いや、幸せだったことがなかったから、不幸だってわからなかっただけ」
「あたしもフコウってよくわからなかったけど、いまはちょっとわかるかな」
 後ろに手をくんだムンドゥングゥが、小石をけりあげるしぐさをする。
 そして、とてもちいさな声で、
「ヨ君がいなくなったら、あたしはフコウになると思う」
 聞こえた。
「え、なんて言ったの?」
 でも、ぼくはいじわるに聞き返してみる。
 みるみるまっかになるムンドゥングゥ。
 不自然に視線をうろうろさせてから、
「あ、公園だわ!」
 言うがはやいか、駆け出してゆく。ぼくはあわてて追いかける。
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
 聞こえないふりをした。


 公園の入り口で、ぼくは思わずたちどまる。
 遠くからみるムンドゥングゥが、すごくきれいだったから。
 茶髪の女の子がぼくの背中にぶつかってくる。ひじをつかって、邪険にふりはらう。
 ムンドゥングゥは、ブランコのくさりに手をかけて、表情をゆるませる。
「ブランコって、ひさしぶり。ちょうど向こうに小学校があって、子どものころは帰りによく乗ったんだけど」
 手についた赤さびに鼻をちかづける。
「そう、このにおい。鉄のにおい。なつかしい……ねえ、ちょっとすわっていかない?」
 ふたりの女の子にはさまれて、ぼくは真ん中のブランコに腰かける。すこしきつい。
 でも、ムンドゥングゥにはちょうどいいみたいだ。
「あたしってば、あんまり成長してないのね」
 深夜の公園で、ブランコに腰かける3人。はた目には、いったいどんな関係にみえるのだろう。
 遠くの外灯にはセミやかぶと虫がかんちがいをして、ぶんぶんととびまわっていた。
 しばしの沈黙のあと、ムンドゥングゥが話しはじめる。
「あたし、ひとりっ子じゃない? お父さんとお母さんはとってもだいじにしてくれたけど、ずっとふたりのあいだには入れないような気がしてたなあ」
 ぼくはなにも言わずに、さびしげな横顔をみまもる。
「学校の友だちでも、3人いるといつのまにか、なんかひとりあまっちゃうでしょ。あんな感じ。お父さんとお母さんが結婚して、あたしが生まれたんだから、あたりまえなんだけど、なんだかあたしだけ遅れてきたみたいに思ってた。――おたふく風邪で4月に1週間くらい休んだことがあって、クラスにもどったらみんな仲良くなっちゃってて。ぽつんとひとり座ってたら、お弁当のときとか呼んでくれるんだけど、みんなが楽しそうにしてるのを見てると、もう遅れたぶんはぜったいとりもどせないんだなあ、って――わかんないよね」
 下を向いて、はにかんだように微笑む。
 こんなに長く、ムンドゥングゥが自分のことを話すのをはじめてきいた気がする。
「わかるよ」
「ほんと?」
 ぱっと顔を上げると、まるで花がさいたようだ。
「それとも、同情してる?」
「ぼくは4月に、水ぼうそうで休んだ」
 鈴のようにころころと笑いだすムンドゥングゥ。よかった。
 となりでは茶髪の女の子がくわえタバコで、カチカチとメールしている。
 視線に気づいたのか、顔をあげると、
「ねー、あちし、まだおカネ……ぐほッ」
 みぞおちに肘を突きこみ、吸いさしのタバコをとりあげる。これは間接キスじゃないな。
 肺いっぱいに煙を吸いこむ。にがい。
「いけないんだ、不良みたいなことして」
 あんまりきれいな告白に、ぼくは自分を汚したいような気持ちになったのだ。
 アーサーの言葉が、よくわかる。
「わたしねえ」
 ちいさくブランコをこぎながら、ムンドゥングゥがいう。
「ヨくんがいっしょにいてくれるとね、がんばろうって思えるの。もちろん、身長とか、胸がちいさいこととか、がんばってもダメなことはあるけど、がんばったら変えられるところは、がんばろうって」
 ほっそりとした足がまげのばしされるたび、ブランコは大きくゆれうごく。
「だれかのことを考えたとき、ひとりのときよりも力がでるって、すごいことだよね」
 ぼくをほんろうするように、声が前と後ろからきこえる。
 それはぼくも同じだよ。
 思ったけれど、声にはださなかった。なんだかこわいような気がしたから。
「あーっ!」
 突然すっとんきょうな声をあげて、ブランコをとびおりるムンドゥングゥ。
 声の大きさよりも、ころばずにひらりと着地したことへおどろくぼく。
「わたし、すっごいことに気がついちゃった!」
 一筋の月光が、ムンドゥングゥの額から顔に流れる。
 紅潮したほおは、夜の底でかがやく星のようだ。
 ぼくはなんだか泣きたいような気持ちになって、やさしくたずねる。
「なにに、気がついたの?」
「あのね、お父さんとお母さんも、はじめは他人どうしだったんだよ!」
 言いたいことがわからない。
 ムンドゥングゥはおかまいなしで、興奮のきわみ、といったかんじで手をふりまわして力説する。
「だからね、家族って、他人どうしが作るものなんだよ。だからね、わたしたちが家族になっても、ぜんぜんふしぎじゃないんだよ! これって、すごい発見よね! カクメイテキだよね!」
 ずきり。
 痛ましいような想いが胸にささる。ムンドゥングゥは何もわかっていないのだ。
 革命っていうのは、これまでにあるぜんぶを捨てること。たとえば、ぼくが大陸に捨ててきたぜんぶを、ムンドゥングゥは知らない。
 いずれこの世界の悪にであったとき、ムンドゥングゥの純粋さは手ひどく傷つけられてしまうのではないだろうか。あまりにも信じすぎるこの純粋さは、いつかムンドゥングゥを殺してはしまわないだろうか。
 ――だから、おまえがいるんだろ?
 ぼくはおどろいて、あたりをみまわす。
 ――そのために、いたみ、くるしみ、よごれてきたんだ。
 それは、天からふってきたような言葉だった。
 なのに、ぼくの胸の真ん中へ、すとんと落ちた。
「こらっ! こんなおそくに子どもがなにやってんだい!」
 ぼくたちは、いっせいにふりかえる。
 公園の入り口で、むらさき色のパーマをかけたおばさんがぼくたちをにらみつけていた。
 ピンクのネグリジェを着て、手にはなんと金属バットがにぎられている。
「たいへん!」
 ムンドゥングゥが大きく目をみひらいて、両手を口にあてる。
「逃げましょう!」
 言うがはやいか、駆けだしている。ぼくはあわてて追いかける。
 ぼくの人生の先を素足でかけていく少女。
 どちらがどちらをみちびいているのか。
 もしもころんだら、そのときは優しく抱きしめてあげよう。
 ぼくは少女のナイト。
 このいのちは、すでにプリンセスへささげられている――


「このへんで民生委員やってるマスオカってんだけどね。アンタ、変わってるね。逃げないのかい?」
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」

本編(リライト前)


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