忘備録「ロスジェネについて」(2013.12)

 ああ、またこの世代の犯行だったか、という感じ。ぼくたちの小中学生時代はインターネットが存在せず、ゆえに左の教育の純粋な効果が最も期待できた時代だった。ぼくたちは意味もわからず汗を軽蔑し、土からは遠く切り離されたまま、ファミコンのドットの群れに世界を見ていた。

 その暖かな楽土へ、当時はだれもそれとは知らなかった第一次就職氷河期がやってくる。社会に回収されない個人が多く野へ撒かれたのが、ちょうどこの時期だ。そしてぼくたちは、数少ない優れたクリエイターや、均衡を失った多くのキチガイになった。汗は牛馬に所属し、土を不浄とみなすようずっと教えられてきていたし、何より最悪なことに、大学生のときにエヴァンゲリオンの本放送があった。いや、大真面目だ。

 余談だけれど、90年代後半のテキストサイト管理者は、そんな社会に回収されないアウトローか、その予備軍である学生がほとんどを占めていたように思う。一昔前のアマチュアバンドに例えれば、有名テキストサイトがインディーズレーベルだとすれば、エロゲーライターになることはメジャーデビューする、みたいな感じだった。そう、エロゲー制作が最高にクールで、ワルくて、ゴッドな一時期は確かに存在した。いま、ぼくがそれを感じることはない。

 閑話休題。今回の事件は規模こそ違えど、マーク・チャップマンを描いたチャプター27的であり、また手前味噌を言わせてもらえば、極めて高天原勃津矢的である。護送車に乗せられるときカメラに向けた彼の表情は、目をキラキラさせた満面の笑顔だった。長い長い無視の不遇を経て、ようやく社会に見つけてもらえたこと、そしていま正にこの瞬間、世界の焦点が自分の上にあることが、嬉しくてしょうがなかったのだろう。ぼくに不機嫌にテレビを切らせたのは、まちがいなく同族嫌悪と呼ばれる感情だった。憎しみと自己愛の種子はかように広く深く撒かれており、これが最後の一人だとは、ぼくにはとうてい思えない。

 ぼくたちは、虫のようにたくさんいる。そしてぼくたちは、虫のように人の悪徳を実感できず、ただその種子を萌芽させないことに人生の多くを費やしている。

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