映画「ドライブ・マイ・カー」感想

 『俺はいま47歳だ。仮に60歳まで生きるとして、あと13年ある。あまりに長い。どう生きればいいのだ』

 ドライブ・マイ・カー、見る。最高に正しい、村上春樹作品の映画化。すなわち、アジア人たちに彼らが持つはずのない西洋人格をかぶせた、西洋トラウマ劇の上演会である。かつて、「自暴自棄になった村上春樹」の異名を頂戴したことのある私だから、はっきりわかんだね。撮影手法はリアル指向なのに、人物造形は徹頭徹尾フィクショナルであり、3時間もの全長に対して物語が動くのは、終盤の30分のみ。冒頭30分はエロゲーみたいにウソくさい妻のキャラ設定を聞かされ、ようやくタイトルが出たと思いきや、そこからの2時間はドキュメンタリー調の長回しが淡々と続く。そして最後の30分は泣きゲーばりの虚構然とした伏線回収パートで、まさに戯曲そのもののわざとらしいチェーンリアクションが次々と展開していく。

 ダニエル・キイスを思わせる「虐待母の別人格」の話が出た瞬間は、「それ、いる?」と思わず強めにつぶやいてしまいました。京職人の和菓子に「甘さが足らんかも?」と食べる前からハチミツをかけるようなもので、「これが村上春樹なんだよ!」と言われれば、曖昧に笑って目をそらすしかありません。押井守ばりの車中劇で展開するネトリ・ネトラレ・ダイアローグには、夫の緑内障と対応する空き巣の左目にペンを突きたてたりとか、「不倫をする妻の懺悔録として聞いてね!」という圧が強すぎて、「本当に村上春樹って、ストーリーテラーというよりは文体作家なんだよな……」と思いました。「『観客は制作者が思うより、ずっと賢い』という言葉に殉じて、観客を信頼した演出をつけている」みたいな評を見ましたけど、作り手の誘導する解釈のフレームが強固すぎて、私は終始バカにされているように感じました。

 全篇にわたって昭和の価値観が横溢しており、マイカーとセックスへ向けた不可思議な執着や、なぜか演劇が世界を革命するという考え方(この化学反応を劇場で観客と起こすんだ!)や、生理周期に由来する女性のジャッジの揺れを神格化して巫女と奉るとか……最後のは、女性と接点が少ない男性全般かな。全共闘の闘士たちが大手企業と国家公務員の採用で厳格な人定作業を受けた結果、高学歴なのにどこにも採用されず、消去法として漂着したサブカル(アニメ業界とか)やらノースコリアやらを己の人生を否定しないためだけに正しい道行きだったとすりかえて受容したことが、本作のエンディング付近に吐きたての吐瀉物からもうもうと立ちのぼる湯気として表れています。ラストシーンが半島へと移ったのには、「地上の楽園へと向かう万景峰号」の思想がある種の臭みとしてありありと画面から漂ってきて、思わず鼻の前を手のひらではらいました。まさに内田某や平田某や、それに連なる全共闘の有象無象が激賞しそうな中身に仕上がっています。

 ゴドーやゴーリキーにだまくらかされたフランスの批評家や、広島から北海道への日本縦断をロードムービーと勘違いしたアメリカの批評家はまあいい(よくない)として、それ以外の人物が賞レースにめくらましをくらって、これをほめちゃダメでしょ。本作を評価しているのは、おそらく現世での権威となった70代・80代の人物たちであり、その「人生終盤の懐古趣味」を我々が鵜呑みにするのは、人類の知性が総体として前進する事実へ向けた冒涜であると同時に、ほんの半世紀ほどしか保たなかった「間違った」価値観が、後の世代へと受け継がれてしまうことの無責任な看過でありましょう。我々はこれへ、厳に抗うべきなのです。村上春樹がノーベル文学賞を与えられない理由が、表層では土着の物語と見せかけながらその実、キリスト教由来の西洋人格をアジア出身の登場人物にインストールした小説だからであることを喝破した慧眼の諸君は、それぞれの立場からいかに本作が視聴する意味の希薄な「昭和歌謡大全」なのか、自信を持って堂々と表明してほしい。

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