雑文「本邦のSF界隈、あるいは日本語ラップについて」

 本邦のSF界隈がその構成員の高慢と偏狭によって版図を失い続けてきたという指摘を、またぞろ自らの手で立証していると聞きおよんだ。

 以前いろいろしゃべったので同じ言葉は重ねるまいが、SFの本質って異文化コミュニケーションだと思うんだよね。知性の質そのものが異なっているだれかといかに意思疎通し、可能ならば共存の道を見つけようという試みがSFだって信じてるわけ。他者と意志を通わせることの困難さって、もっともミニマムな範囲でいうと幼少期に肉親とどうコミュニケートしていたか、その質がどんなものだったかが個人にとって大きいと思う。だから、どんな場でもだれとでも軽々とコミュニケーションしてのける人たちっているけど、うらやましいと思うと同時に、彼らはSFには到着しないだろうなって考えるわけ。個人としてコミュニケーションの不具を抱えているだれかにとって、SFっていう手段はすごい有効なセラピーっていうか、解決策っていうか、魂の癒やしだと信じ続けてきたわけ。

 今回の騒動だけど、わずかの想像力があれば改善可能だったシステムの不備を泣き言で看過し、かつ自分たちとは異なる文化土壌から来た存在をまずもって拒絶していて、どっちもすごいSFの本質とかけ離れたやり方じゃない? 思ったのは、ああ、やっぱりなー、日本のSF界隈から出たSFって本当の意味でのSFじゃないんだなー、ってこと。結局ジャパニーズラップと同じで、舶来の方法論を歪に模倣しながら、最後にはよそ者をだれも受けいれない土着のムラを形成するに至ったんだよね。ジャパニーズラップも、ジャパニーズサイファイも、国や人種を越えた偉大な虚構分野としてのジャンルに、何ひとつ影響を与えていない、何ひとつ還元していない時点で、もっと深刻なアイデンティティ・クライシスに陥ってしかるべきじゃないの? 結局のところムラを形成して、そこだけで有効な権威のボールをパス回しして、一定の満足を得ちゃったんだよね? ヒューゴー賞とネビュラ賞に国籍条項ってあったっけ?

 本邦の文化が持つ美徳と正反対の部分を極限にまで濃縮したものが、ジャパニーズ・サイファイ・ビレッジだという事実を再確認できたことだけは、良かったです。小鳥猊下でした。

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