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工夫することはできる

「ソファがほしい」、「ビーズクッションでもいい」としつこく懇願していた娘。ソファはいらないと一点張りの夫に対して、体が沈み込むようなビーズクッションを見てみたいのぉ〜と言い続けるので、「ちゃんと見てからね」と言う夫と、3人でお買い物へ。
実物のビーズクッションは本人が期待していたほどの沈み込みではなかったらしく、「じゃあこっちにしようかな」とそばにあったクッションを撫でたりしていた。食パンやマカロン、バナナなど、どうして? と思うようなおかしな柄のプリントのクッションカバーを見ながら、「これもうけるねぇ」と娘とゲラゲラ笑っていた。夫を見ると、あまり笑っていない。「これがないならこっちでいいや、みたいな選び方は違うでしょう。そういう話じゃなかったでしょう、帰るよ」とピシャリ。帰りの車内で、娘のテンションはだだ下がり。なんだか気の毒なほどだった。

娘が生まれる前、インテリアショップにベビーベッドのカバーを買いに行ったときのこと。「こどもっぽいのじゃなくて、シンプルで、お部屋にあったかわいいのがいいなぁ」と思って選んでいたら、隣にいた女性が「キャラクターとか、死んでも、絶対にありえないから!」と強い口調で言い放ち、思わず、ビク! っとして目をやると、よほど機嫌を損ねたのか般若の形相で、なんだかわたしまで怒られた気持ち。その瞬間、なんだかわたしはハッとしてしまって、「これは神様が今、わたしにみせてくれたのかも」と感じたのだった。

実際に娘が生まれると、わたしはわたしが思っていたよりもはるかにモノに対する制限がなく、おしゃれでもなく、素敵にもうとかった。なんの疑いもなく、自分自身をもっと素敵な人だと、過大評価していた。その事実に、軽くショックを受けるくらいにわたしは抵抗がなかった。これはきっと親の影響と、育った環境により生まれたフリーダムに違いない。親のせいみたいだけど!
わたしの両親はこどもにあまり否定をせず、なんでも自由にさせてくれた。4人兄弟の末っ子だったこともあり、わたしがこの世に誕生したときはもう、そこはフリーダムオブフリーダムだったのだ。パラダイス。

娘は、アンパンからはじまり、ディズニープリンセス、サンリオ、ミニオンズを経て、いまはすみっこぐらしに夢中。せっかくだからと、わたしも全てのキャラクターブームに共にのり、せっせと買い与えてしまっている。こんなこと、想像していなかったのにな、おしゃれなはずのママはどこに? 今でも思う。

先程のクッションの話に戻るけれど、夫はキャラクターが嫌いなのではなく、目的がずれたり妥協するみたいなことを娘に注意したかったのだと思う。そういうことが、1番嫌いな人なのだ。
それにしたって、娘は後部座席でひれ伏せて、もはやテンションだだ下がりではないか。期待したばっかりに、かわいそうに。

なんかないかな? 
アイデアマンのわたしは考えていた。そうだ、昨日大掃除で出てきたベビー布団があったよね、もう処分しようと思っていたやつ! あれをうまいことたたんで、ブランケットで包んで縫えば、クッションになるかも? 

「帰ったらママがクッションつくってあげようか?」

そう言うと、娘は「えっ!」と電気がパッとつくみたいな顔をした。帰宅して娘がお風呂に入っている間に、大急ぎでベビー布団を引っ張り出してたたみ、ブランケットで包んでまわりを手縫いでざっくりと縫い止めると、思っていたよりもそれっぽいものが完成した。娘は大喜びしてくれて、夫も「ママはすごいねぇ!」と言い、アイデアマンのわたしは、清々しい達成感でゴールテープを切った。

なかなかそう思うのが難しいときもあるのだけど、わたしの座右の銘は「工夫することはできる」。
どんなにピンチでも、しんどい状況のときも、どこかに解決の糸口はないだろうか、工夫は? ヒントは? と、考える癖をつけている。呪文のように唱える「なんかないかな」は、わたしの口癖でもある。
クッションは、キャラクター同様にブームが去ったら解体するだろうし、その時になったらお布団は処分したらいい。ブランケットはお気に入りなので、いつか復活出来るように、どこにもハサミを入れなかった。オールオッケー、オールハッピーエンド。大丈夫。工夫することは、できるから。

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