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月の底は見えない 3 「愛されるということ」

 今夜もまた、大学の屋上から口笛が聞こえている。しかし、いつものニュルンベルクのマイスタージンガーではなかった。もっと静かで。冬の夜というレコードに針を落としたら流れる音色を思わせる。この曲はたしか──
「こんばんは、つきみ先輩」
「やあ、ひよの君。今夜も来たね」
屋上への扉を開けると、そこにはぼくを笑顔で迎えるつきみ先輩の姿があった。笑っていても底が見えない瞳は相変わらず。月明かりに艶めく肩までの黒髪。今夜の彼女は黒のコートではなく、ネイビーのダッフルロングコートに白のセーターだった。マフラーにあごまで埋めて、両手はコートのポケットに。寒さ対策は万全といった様子だ。
「今日の口笛はいつもと違うんですね。なんだか聞き覚えがある曲というか……」
「そうだね。ショパンの夜想曲第2番だよ。聞いたことがあるんじゃないかな?」
「ああー!思い出しました!夜想曲ですね。同名のゲームのタイトルで流れていて聞いたことがあります。赤川次郎先生の小説を下地にしたサウンドノベルで──二作目まで出ていてなかなか面白かったですよ」
 思わぬ再会を果たした音楽とゲームについて語るぼくに歩調を合わせて、つきみ先輩も語り始める。
「懐かしいね。原作は『殺人を呼んだ本』だったかな。人の死に関わった本ばかりが所蔵されている私設図書館。そこで巻き起こる本にまつわる事件を解くミステリ連作短編集。ホラーとミステリのバランスが良くて、赤川先生の軽妙な読み味やキャラも活きてて面白い作品だったね」
「コメディタッチで読みやすいですよね。図書館に勤めることになった三記子と、そのボーイフレンド・好男の関係が楽しいですし。三記子みたいに幽霊にも物怖じせずに我が道を突き進めるのは憧れますね」
「ああ、やっぱり──ひよの君はああいう女の子がタイプなのかな?」
 この人はいきなり急所を突いてくる。だから急所って字を書くんだな……。それはともかく。
「あそこまで行くと振り回されて大変そうですけどね。好男、頑張れよって応援したくなりましたし」
「確かにね。図書館を管理する田所との三角関係にまで発展して大変だった」
「その後の話も気になりますよね。シリーズ化してもよかった気がします。ゲームだと図書館の歴史の話とかがオリジナルエピソードで補完されていますけど。話してるとまたプレーしたくなってきました」

 ぼくたちは話がひと段落すると、屋上のフェンスにゆっくりともたれかかった。今夜も月は微笑むように輝いている。寒い夜ながらも、あたたかく満ち足りた空間。もちろんそれは月のおかげだけではない。
「──それで、今夜も何かあったのかな?」
 ぼくは目を合わせようとして、こちらをじっと見つめるつきみ先輩と目が合った。吸い込まれそうな夜色の瞳。そこに映っているぼくの姿は、彼女の中ですでに噛み砕かれ、すべて見透かされているように思えた。小説には嘘を見抜く特殊能力を持つキャラがいたりもするが、この人はその一人なんじゃないかと疑うほどだ。いや、そうに違いない。
「先輩って家族や友人に愛されてるって思います? 実感ってありますか?」
「──愛されてるかどうか、か。どうだろうね。気になることがあるならまずは話してごらん」
 言葉の先を促される。ぼくは冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、深く吐き出すようにして話を続けた。

「ぼくは今まで愛されたことがあるのかなって怖くなるんです。もちろん、両親にはこれまで育ててもらって感謝はしています。けれど、愛されていたのかなって。小学生の頃、ぼくは長い間いじめられていました。暴力を振るわれたり、買ってもらったばかりの靴を隠されたり。先生や親に相談しても、誰も助けてくれませんでした。友人もみんな見て見ぬフリです。トイレの中で自殺も考えました。その時のぼくは単純だったから、ゲームできないのは嫌だなあって死ななかったんですけどね。
 そんなある時、掃除中の事故でいじめっ子の一人にケガを負わせてしまいました。そうするつもりはなく、不慮の事故でした。そうしたら、すぐに先生から呼び出しを受けて説教されたんです。「どうしてあなたは相手にこんなケガを負わせたんだ?」って。その後、母と一緒にケガをさせてしまった子の家にも謝りに行きました。でも、ぼくはいじめられてきたのに、なんでこんな時だけみんな相手の味方をするんだろうって思ってました。正直、内心では可笑しくて笑っていたくらいです。ぼくがやったことは悪いことだとしても、いじめっ子は毎日のようにぼくを傷つけて、それには何も言わないなんておかしいじゃないかって。
 その後はぼくがケガさせたことに恐れをなしてか、いじめはピタッと収まりました。大人は誰も助けてくれず、その事故による暴力だけが自分を助けたというのは皮肉ですよね。自分が愛されてないという気持ちは、遡ればそこから来ているんだと考えてます。誰も自分に寄り添ってはくれない。そして、愛されるには両親や先生が気に入るような行動をしなくてはならなかった。成績が良くて、親孝行で、問題を起こさず、反抗しない良い子。でも、そんな作り物の自分が愛されたところで、意味なんてないんです。愛されたいと願う自分は、心の奥で泣いたままなんですから。どうしたらぼくの気持ちが伝わるんでしょうか。どうしたらありのままの自分が愛されるのでしょうか。先輩はどう思いますか?」

 外気よりも冷たい言葉を吐き切って、ぼくは深呼吸する。泣いてしまいそうだった。自分の吐き出した気持ちに押しつぶされそうで。その気持ちをただ真摯に横で聞いてくれている先輩の誠実さで。
「よく頑張ったね」
 余計な言葉はいらない、とでも言うように、先輩はぼくの頭を撫でた。ひたすらわしゃわしゃした。ぼくよりもつきみ先輩の方が背が高い。撫でるにはちょうどいい高さだっただろうが、男としてはうれしいような悲しいような気持ちにはなる。しばらくの間されるがままになり、手を離したつきみ先輩はコートのポケットに手を入れた。
「今日の一本」
 ポケットから取り出したのはタリーズの缶コーヒーだった。フタを開けて一口飲む。
「“今日の一本”って島田潔ですか!ってツッコもうとしたら、タバコじゃなくてコーヒーじゃないですか!」
「ふふ、一本には変わりないでしょ。私はタバコを吸わないし、そもそもキャンパス内は全面禁煙だからね。はい、飲む?」
 もう片方のポケットからまたもやタリーズが現れる。ブラックコーヒー。実はブラックは苦手なのだけど、目の前に差し出されて断るのも悪いので受け取ることにした。
「ありがとうございます。まだ、あたたかいですね」
「さっき自販機で買って、カイロ代わりにしてたからね。私は缶コーヒーならタリーズが一番好き」
 ぼくもフタを開けて口をつける。香ばしいコーヒーの風味が広がる。言われてみると、おいしく感じてくる。でも、苦みもあってぼくには複雑に感じた。

「ひよの君はさ、感受性が豊かなんだろうね。打てば響く。というか、響いてしまうと言った方がいいのか。そこが私が好ましく感じているところなんだけどね。それはさておき、君の心は楽器のように奏でる人の心で音色を変える。奏でるのは自分でもあり、相手でもある。聞き惚れるような音を出す時もあれば、聞き流せない泥のような音の時もある。君は私のことを“何でも見透かすような人だ”なんて思ってるよね? 実はそれは逆だよ。君の方が相手の心を映し出す鏡なんだ。私よりも鋭敏に相手のことを感じ取っているんだよ」
 さておかれたところが気になったが、つきみ先輩の言葉の続きを待つ。
「愛されてるかどうかが気になると言ったよね。私はエーリッヒ・フロムのこの言葉を伝えたい。『たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。』
 私はこの本『愛するということ』を読んだ時にハッとさせられたわ。愛されることこそ自分の価値を測るものであり、愛することは自己犠牲的なものだってイメージが強かったから。でも、それは違って、愛することこそが相手も自分も豊かにすることに繋がるの。愛することは技術であり、学ぶことができるとフロムは言っているのね。
 私が言いたいのはね、問題は“愛されてるかどうかじゃなく、愛することができるかどうかでしかない”ということ。それは感受性が強い君だからこそ必要になる力なの。自分の心という楽器は、他人に弾かせるものではないわ。あなたが自分や誰かを豊かにするために弾くものなの。それを自覚してこそ、自分の行動に責任が持てるし、相手の行動を尊重できる。まあ、こんな偉そうに言ってても、簡単にできることじゃないけどね」
 つきみ先輩はタリーズを喉に流し込む。ふわっと立ち昇るコーヒーの香り。
「ひよの君にはもっと愛することを学んでほしい。愛される努力じゃなく、愛するための努力をね。愛することの勇気と責任とかけがえのなさを知った時、あなたは愛されることの尊さをより深く味わうことができると私は思う」
 先輩の凛とした声が夜に通る。心を震わせたその言葉はまだ溶け切ってはいないけれど、ぼくのことを考えて丁寧に伝えてくれた言葉だということはわかった。今はそれだけで充分だった。

「もしかして、ブラックは苦手だった?」
 あまり進んでいないぼくの口を心配してか、先輩は声をかけてくれる。
「あ、そうですね。自分からはそんなに飲まないです。苦いのが苦手っていうか。これも慣れなんですかね」
「うーん、嗜好品だからね。好き嫌いあって当然。無理に慣れる必要もないし。でも、専門店のおいしいコーヒーと店内の雰囲気は知っておいてもいいかもね。ブラックでも甘いコーヒーを出すお店があってね。そこは感動したなあ。コーヒー愛がひしひしと伝わってくるの。見た目はマジメで固そうなマスターなのに、コーヒーの話をすると途端に止まらなくてね。こんなにも愛してる人だからこそ、この味になったんだなって。『誰かを愛するなら、ひたすら愛するのであり、与えるものが他に何もないときでも、愛を与えるのだ。』って言葉を思い出した。愛することが大事っていういい例かもね」
 コーヒーを愛するマスターが淹れたコーヒーを、つきみ先輩が愛して語る。そこに愛されようなんて気持ちは混ざらない。なんて孤独で、素朴で、あたたかいものなのだろう。
「──つきみ先輩、そのお店に連れて行ってください。コーヒーを愛せるかはわかりませんが、とっても気になりますから」
「もちろんいいよ。好きになってくれたらうれしいなあ。ちなみに、映えスイーツとかは一切ないから注意してね。あるのはシンプルなカステラだけ。いつ行こうか」
「先輩に合わせますよ。車も出してもらうことになるでしょうし」
「あらら、ちょっと欲が出てきたんじゃない? まあ、こんな先輩でいいなら使ってよね。こっちも暇してるから。ひよの君に元気が戻ってきてうれしい限りだよ」
 そう言って、ぼくとつきみ先輩はタリーズの缶で乾杯した。舌を包むほろ苦い味わいを、ぼくはさっきよりも少しだけ甘く感じていた。


【補足】
「誰かを愛するなら、ひたすら愛するのであり、与えるものが他に何もないときでも、愛を与えるのだ。」
ジョージ・オーウェル『一九八四年』より引用させていただきました。

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