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官能 満員電車の女


がくん、という衝撃で目が覚めた。


同時に、額に硬いものがぶつかり鈍く痛んだ。
壁に押し付けられる自分の身体。揺れる足元。誰かの鞄の、無骨な金具が腰に食い込む―――その感覚で、意識がはっきりしてきた。

そうだ、今は通勤中だった。

女物の、甘ったるい香水の匂い。無駄に油っぽい整髪料の刺激臭。朝まで飲み明かしたのか、呼気に含まれるアルコール臭。揚げ物のような汗の匂い。粉っぽい、化粧品の匂い。大勢の人間が閉鎖された空間にいることによる弊害の香りが、そこかしこから漂う。
分かりやすく言おう。
非常に臭い。そして狭い。苦しい。季節柄外の空気は冷たいはずなのに、車内には熱気がこもり、扉のガラスは薄く曇っていた。人の波に圧し潰される腹部が何故だかキリキリと痛む。

(ちくしょう)

満員電車はこれだから嫌なんだ。
先程までの睡魔はどこへやら、今は前方を扉と壁に、手摺りが腰に、そして背中をぐいぐいと人並みによって圧迫されている為、いろんな意味で必死だ。

停車すれば、開く扉に荷物を巻き込まれないように気をつけながら一旦ホームに降り、人に紛れて再び乗車する。会社の最寄りの駅まで、この繰り返しだ。
しかし、まだまだ遠い。

がたん―――と足元に振動が伝われば、犇めき合う人が慣性の法則によって傾く。傾きに合わせて、ぎゅうぎゅうと体重をかけられるものだからたまったものではない。
早く目的の駅に着いてくれ―――切実にそう願いながら、痴漢に間違われないよう、鞄を両手で胸に抱くのだった。

何度目かの停車駅でのことだった。
ふと気が付けば身動きできる程度には人のはけた車内で、体に異変を感じた。いつからその状況になっていたのかは分からないが、自分が意図した訳ではないことだけは確かだ。

―――――背中に、なにか柔らかいものが当たっている。

背広越しでもはっきり分かる。

(これは、あれだ。なんという不運。あれ?いや、むしろ幸運なのか?まぁいいや)

柔らかく弾力のあるそれは、電車が揺れるたびむにむにと背中を圧迫してくる。
大きい。
気持ち良い。
十数分前までの不快感は姿かたちも残っておらず、心地よいぬくもりが背広から伝わり、思わず、だらしなく頬が緩んだ。ふにゃり、と形を変える、おそらく女性の胸であろう物体は、満員電車の荒波に揉まれた成人男性の心を癒すには、しかも朝からとは――――そう、刺激が強すぎた。
日頃の疲れもあり、欲求に素直な自分の体はあまりにも分かりやすかった。
触りたい、揉みしだきたい、顔を埋めて、しゃぷりつくしたい。
鞄を体の前で持っていて正解だった…
無意識に反応する自分の分身を隠しつつ、しばらく背広越しの感触を楽しむ。もちろん周囲にはバレないようにしているが、それでも口元は不格好に震えてしまう。

(今日は良い一日になりそうだなぁ…)

などと能天気に頭に花を咲かせたものの、次の瞬間、そんな思考は吹っ飛ぶことになる。

(…あれ、でも)

そう、おかしいのだ。男性である自分にとってこの状況は美味しいものであるが、女性にいたってはそうではない。大きい胸をコンプレックスに思う女性の中には、電車で視線を浴びることすらも不快に感じる者も少なくはない。
ましてや、電車の中だ。満員電車の中であれば不可抗力とも取れる現状、身動きがとれないほど人口密度が高いわけでもない。
にも関わらず、豊満な胸は、今も自分の背後でたわわに揺れている。

(まさか...)

つまり、女性は自らの意思で、自分に胸を当てているのである。
金銭目的の犯行か、ただの痴女か。どちらにせよ恐ろしいことに変わりないが、出来たら後者であってほしい。今はただ胸を押し付けてくるだけであるが(それでも効果は抜群だ)、エスカレートされてはどうすることもできない。というか、こちらが手を出したらまずい。それこそ思うツボかもしれないのだ。

(あああっ、くそっ)

朝からしなくても良い苦労をする羽目になった。いつの間にか胸の動きが大胆なものになっているし、気のせいかとても良い匂いがしてくる。シャンプーの残り香なのか分からないが、柑橘系の爽やかな香りは自分好みで警戒心が解れていくかのようだった。
乗客は他にもいるはずなのに、眠気に襲われているのかほとんど存在感がない。誰か気付いてくれ、いや気付かないでくれと葛藤しながら、甘い誘惑に耐えるしかない。

むくむく、と分身が固く勃ち上がっていることに気付いたのか、背後の甘い気配が少しずつ自分の体の前へ伸びてきた。視線を下に向ければ、女性らしい白くほっそりとした指が、ベルトに触れ、さらにその下のファスナーにかかろうとしていた。

(これはまずい―――)




と、その時だった。
電車がゆっくりと停まり、扉が開く。
そこが目的の駅である表示が目に入り、確認すると、緊張の糸が切れたのか、我に返り勢いよくホームへ飛び降りた。

自分の心臓が、まるで全力疾走したかのように、ばくばくと脈打っている。

(な、なんだったんだ、今のは…)

思い切って振り返り、アナウンスと共にぷしゅう、と閉じる扉の内側に目をやれば、どことなく見覚えのある、黒髪の綺麗な女性が、そこに立っていた。

(またね――――)

と、女性が口を動かしたような気がする。そしてひらりと手を振った。
ぞわりと背筋が泡立つのを感じた。




その女性が、何故だか知らないが、とても楽しそうに微笑んでいたのが、いつまでも脳裏にこびりついて離れなかった。

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