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書評: 『だもんで豊橋が好きって言っとるじゃん』

昨年豐橋市を旅行した際に購入し、長らく積ん讀してゐた (僕のは電子版だが) 表題作。漸く讀むに至り、忽ちに感銘を受けた。作中から溢れむばかりの郷土愛、壓倒的な地域貢獻度。たゞ讀むに留むるはあまりに惜しければ、その感銘を記してみむとてするなり。

東三河とは?

愛知縣豐橋市は愛知縣南東部、渥美半島の附け根邊りに位置する人口35萬超の中核市である。乘り鐵的には、米原驛を發つ新快速電車の終點驛に、桃鐵的には、竹輪物件を買ふ驛に當たる。表題作の描寫に從へば、當地の人々は東三河 (=三河國東部) の中核と捉へてゐるらしい。

この東三河といふ地理的槪念は、九州で生まれ育った僕には馴染みが薄く、2019年夏に瀨戸市と岡崎市とを旅行した際に薄っすら感じた程度である。しかし、表題作を鑑賞するにあたっては、登場人物たちが度々口にするこの槪念を理解する必要が有る。

縣より國

現行の縣ではなく、かつての國[!]で土地を捉へる人々は現在も少なからず存在する。僕が18歲までを過ごした大分縣は豐前と豐後とに跨ってゐるが、縣民閒の國認識は薄かったやうに思ふ[!!]。現在住の兵庫縣は例外的に國をいつゝも抱へてゐるためか、縣民閒の國認識は強いらしく、播州 (播磨の方が劣勢)、淡路、但馬、丹波といった國名を普通に耳にする (たゞし、攝津は殆んど聞かない)。表題作を讀むに、豐橋もそのやうな土地なのだらう。

[!]「舊國」とも呼ばれるが、「舊-」を冠する割りに廢止されたわけではないらしい。
[!!] 經濟的に自立してゐない學生が感じられる世界は非常に狹いものだったので、實際はさうでもない (つまり、豐前/豐後の別に敏感な) のかも。なほ、大分縣西端に位置する日田には、當地を、かつて天領であったことから特別視する人が相當數ゐた。

溢れむばかりの郷土愛

國認識の有無が郷土愛の強弱を反映するかは知らないけれども、表題作は豐橋 (ないし東三河) への郷土愛に滿ち溢れてをり、頁をめくるたびに零れ落ちむばかりである。僕自身は人閒(社會)*[!]にあまり馴染めず、「よりによって、人閒のやうな社會的動物の究極に生まれるとは ... 」などゝ嘆いたりもするのだが、表題作の登場人物 (きっと作者も) のやうに人閒(社會)*を愛して已まない人は素晴らしいと感じる (無いものねだりの羨望も有らうが)。

[!]「人閒」ないし「人閒社會」を指す正規表現的表記。以下同樣。

作者に異なり、自分が身を置く社會を低く評價する人は少なくない。たとへば、表題作における主要人物のひとり、矢越奈々は、大いなる田舍、もとい、大都會名古屋から越して來たことも有ってか、豐橋を「だってー 豊橋何もないしー」(第1卷: 42左3コマめ) と評する[!]。この、喧騷や觀光資源に缺ける町を「何もない」と捉へる心理は、近代化された世界(の、とりわけ若者?)*に廣く見られ、郷土愛の稀薄化や「こゝではないどこかへ」的欲求を招いてゐる。近年は、SNS等を通じて、「こゝより良さげなどこか」を目にする機會が増えたゝめ、自分が所屬する社會への愛着を抱だきにくゝ/失ひ易くなってゐるのやもしれない。知らんけど。

[!] 矢越奈々 (その名にナゴヤシを取り込んでゐることに今氣附いた) の場合、自分が身を置く社會は豐橋在住の現在も名古屋なのかも。

日常に對する感動

さうした中に有って、ともすれば退屈な日常を愛する表題作の姿勢は貴重である。郷土愛を感じさせる文化的知識の全てを作者が執筆前から完備してゐたわけではなからうが、日常を敏感に捉へ、感動する感性は長らく持ってゐたに違ひ無い。

日常に對する感動は、作者においては郷土愛に、更には、郷土愛を詰め込んだ表題作に成ってゐるわけであるが、その外形はほかにも有らう。郷土のやうな空閒に囚はれないもの、たとへば、科學や信仰も、日常に對する感動の現れである。讀み始めのうちは郷土愛の強さに面白みを感じてゐたのだが、次第に、日常に對する感動の蓄積に感銘を受けるやうに成った。

愛深きゆゑの地域貢獻

10年ほど各地をブラ〴〵した經驗から勝手に語れば、日常を尊ぶに越したことは無い。非日常は美しく映りがちであるが、常態化してしまへば、感動など無い。絕景にも美食にも「ふ~ん」といった體である。

日常に感動できるといふことは、それだけでも充分素晴らしい。作者はその上、表題作を以って地域貢獻まで達成してゐるのである。表題作を讀んだ者は大なり小なり豐橋に愛着を持つし、その一定數は豐橋を訪れるに違ひ無い。各自治體が、ふるさと納税に見られるとほり、知名度向上に力を注ぐ中に有って、表題作の援護射撃は、豐橋とその近隣地域とにとって有り難いどころではない。

おのを知り、彼をも知れば、百樣怪しがらず

表題作は、郷土愛の面においても地域貢獻の面においても、對象を豐橋に限らない。こゝもまた素晴らしいのである。主軸は勿論、東三河の豐橋であるが、餘所の異文化も尊重すべきものとして紹介されてゐる。「自分を大切にできない人は他人も大切にできない」といふ言[i]の對偶を表題作は見事に體現してゐる。

[!] かうして文字列にしてみると、ポリデントを要するほどに齒が浮いて來るけれども、或る學友は非常にサラッと、氣障な印象を與へずに言ってのけた。サウイフモノニワタシハナレナイ

更には方言まで

既に充分稱讚してはゐるが、最後にひとつ、三河辯資料としての價値も指摘しておきたい。言語學者だもんで。

表題作において(東)*三河辯を多用する人物は、曾祖母とも同居してゐる (第1卷: 12右2コマめ) 吉田ちぎりである。主要人物のひとりであるから、(東)*三河辯が畫面を占めることも多い。たゞし、あれほどの古態を留めた方言を現實に耳にすることはまづ無い。僕が豐橋を訪れた機會は片手に收まる程度であるが、高齡者に限っても、實際の使用者は少數派ではなからうか。作者の母語話者度や各方言形の自然さも氣になるところではある[!]。

とは言へ、既刊3卷から知りうる音韻的・文法的知見は決して小さくない。人類愛も有れば、笑ひも有り、その上、方言資料にも成るなんて、どこまで出來た作品なんだら。

[!] たとへば、「ほんとに 入って くれるかね?」に相當すると思はれる「ほんとに 入って (=入部して) くれるかん?」(第1卷: 12左2コマめ)。標準語的感覺からの憶測に過ぎないが、この方言形は過剩ではないか?(的外れであったら、申しわけ無い。)

しご]た ちん]ちん そつぁ たん]たん。もろ]た ぜんな] そつい] かえ]て [に]かと かっ とっの] がそりん]に しもん]で '仕事はテキトー、酒はグビ〴〵。貰った錢は酒に替へて、新しいのを書く時のガソリンにします' 薩摩辯 [/]: 音高の上がり/下がり