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続続・頑張れなくなったときに気付いたこと。

1年前「頑張れなくなったときに気付いたこと。」という文章をnoteに記させていただきました。
誰にも理解されなくてもれなくてもいいから、ただそこにある私の「ほんとう」を吐き出したい、そんな一心からの投稿でした。noteでならー私のことを誰も知らない場所でなら「ほんとう」に思っていることをぶちまけると思ったから。
そんな独りよがりだった文章に、時々「スキ」の通知が届きました。
ああ、「誰にも理解されなくてもいい」なんて、強がりだったかもしれません。
だって、誰かが私の言葉を受け取ってくれたということが、こんなにも心強い。膨大なネットの世界で、見つけてくれた人がいるということが、こんなにも私をホッとさせる。
何気ないあなたの「スキ」に助けられている人間がここにいます。
そんな人間が1年経って考える今の「ほんとう」にお付き合いいただければ幸いです。

☆どうして頑張れないんだろう、という答えのない問い

頑張れない自分に悩んでいました。
どうしてもっと頑張れないのか分からないまま、頑張れない自分が嫌でした。嫌ならもっと頑張ればいいだけじゃないかって思うのに、頑張ろうと頑張ってみてもどうにも頑張れない。そして振り出しに戻る。
どうして頑張れないんだろう。
「頑張る」がゲシュタルト崩壊を起こしそうで目眩がするような毎日。息が詰まるような日々。
出口の無い問答を無限に繰り返していたときに、ふっと思ったんです。

なんで私はこんなにしんどいんだろう。
なんで自分の人生なのにこんなに息苦しい思いをしなきゃいけないんだろう。
なんで自分で自分を追い詰めてるんだろう。

全て自分が悪いから、自分が頑張れていないことが悪いんだ、と思っていました。
頑張れない自分には価値や居場所がないんだと思っていました。

「ほんとうに?」

浮かんだ単純な問いかけに答えられません。

「あれ、そうじゃないかもしれない」

そう思えた時、私は少し息が吸えたような気がしました。
息は吐き出さないと吸えないできないことを、ずっと忘れていた気がしました。

☆「頑張れない自分には価値がない」という呪縛の正体

どうして私は「頑張らなきゃいけない」と思うのでしょう。
頑張る」ことが「重要」だと価値付けているのではないだろうか。
頑張る」ことが「当たり前」で、「頑張って成果を得る」ことに「価値がある」と思うということだろうか。
逆に「成果が得られない」ことは「頑張り」が足りないことで、「成果を得る」ためには「頑張る」ことが必要で、ならば「成果が得られない」「頑張れない」そんな自分は許されない、許してはいけないのでは…
という奇妙な思考回路が私の中に出来上がっていることに気が付きました。
それは「頑張れない」と感じるだけで、私の精神を蝕んでくる奇妙な呪いだったのです。

どうして無条件に「頑張る」ことが「正しい」と刷り込まれているのでしょうか。
もちろん「目標に向かって頑張ることに価値がある」という考え自体が悪いわけではありません。
勝手に「目標に向かって頑張れない自分は無価値だ」とすり替えて、自分を縛り付けていることに不具合を感じるのです。
私は自分で自分の価値を与えることが苦手です。周囲から評価されることで自分の存在意義を感じて生きてきたように思います。
誰かに必要とされたい」と思うことを拗らせて、いつのまにか「誰かに必要とされないと居場所が無い」と思うようになっていったのです。
自分で居たいと思う場所に、自分の意思で居ればいいのに、私はそんな簡単なことができずにいました。
きっと「頑張った」経験とそれに伴う「成果や評価」がある人ほど陥ってしまうんじゃなかろうかとも思います。「頑張れない」ことに罪悪感や焦燥感を覚えるのは、かつて「頑張った」と認知できる経験があるから。ましてや「頑張った」ことによって評価されてきたのであれば、「頑張れない」自分をどう扱えばいいのか持て余してしまい、無闇に否定することで安定しようとしていたのではないでしょうか。
自分の現状は「頑張れていない」から好転しないのだ、と。

頑張れない自分は無価値だ」という刷り込み
無価値な自分は周りから受け入れられない」という思い込み
かつて頑張れていたのに何故かいまは頑張れない」という戸惑い

これらによって「頑張れない自分」に悩む呪縛が完成したわけです。
では一体どうしたら解けるのでしょうか。

☆呪いを解く鍵とは

私の呪いを解く鍵はとても簡単なことでした。
辛いこと、苦しいこと、抱えきれないと感じたとき「ねえ、それほんとうに?」って言ってみるだけでよかったんです。
「頑張っていない自分は無価値だ」ー「ほんとうに?」
「苦しいのは自分の頑張りが足りないから」ー「ほんとうに?」
「辛いけどもっと頑張らないといけない」ー「ほんとうに?」

そうやって単純に問いかけてみれば、案外別の答えが自分の中にあるかもしれないのです。と言いつつ私も、浮かんだ別の答えに対して「逃げ」や「甘えだ」と感じることもありました。
その時はそれに対しても「ほんとうに?」と問うてみるのです。
自分の辛さは自分だけのもの。「他の人はもっと頑張っているのに」とか「もっと大変な人もいるのに」とかはひとまず置いておきます。
まずは自分にとっての「ほんとう」に耳を傾けて、かけられた呪いから離れてみること。今まで白いと思っていたものも、もしかしたら黒いものかもしれない、そう思うのです。

頑張れない」「成果が出せない」そんな自分が「無価値」だと思ってもがいていた自分。でも、それが「ほんとう」じゃないかもしれない。「頑張れなくても」「成果が出せなくても私はここに居ても良いのかもしれない。そう思えるだけで、息苦しさが減るような気がするのです。

☆悩みの渦中にいるときは

当たり前ですが、呪いの種類も、解く鍵も、人によって違うと思います。人の成功譚を見聞きして、それに当てはまらなくて落ち込んだり、無理矢理当てはめようとすることは、あまり精神衛生上よろしくない、というのが持論です。
何が言いたいかって、私がここに記した呪いも鍵も、星の数ほどある経験談のひとつだってことです。少しでも誰かの拠り所や共感になったら嬉しいけれど、それ以上に、「分かんねえよ。自分はこれじゃ抜け出せねえよ」ってなったときにポイっと捨ててしまって欲しいってことです。間違っても「コイツは悩んだ結果、答えが出てスッキリして羨ましい。自分は全然ダメだ」なんて思っちゃいかんと思うわけです。
こんな社会の片隅のちっぽけな文章にそんな力があるなんて烏滸がましいですって?そう烏滸がましいくらいちっぽけなんで、合わなかったらすぐポイしてください。願わくばできれば私の知らないところでポイしていただけるとありがたい限りです。

☆最後に

私もまだまだ呪いの渦中でもがいていますが、今まで自分でじわじわとかけてきた呪いです。自分でかけた呪いなら自分で少しずつ解いていけると思うのです。
この一年考え続けてきた私の「ほんとう」が、自分にとっても、誰かにとっても、なにかの道標になったら嬉しく思います。

最後まで、読んでいただきありがとうございました。

2022年1月31日追記公開しました。
「続続続・頑張れなくなったときに気付いたこと。」



最後まで読んでくださってありがとうございます。