当たり前の日常がそこにある奇跡
タイトル、よく聞くやつになっちゃったな。
「朝の時間が幸せだ。」
そんな話を友達にした。その時に思い出した私の幸せがあった。
私はいつまでも甘えっ子の末っ子だったので小学生になっても両親と一緒に寝ていた。
日曜日の朝はお父さんもお母さんもいつもより遅く起きるから、二人がお布団に入ったまま話をしている声でいつも目が覚めた。
それはたわいもない日々の話を二人が共有しているだけの何でもない時間なのだけど、私はそれが大好きだったし、子どもの私にとっては、忙しい二人との特別な時間だった。
といっても話しているのは二人だけ。私はそれをいつもこっそり聞いていた。
冬は特に寒くて、まだお布団にくるまっていたくて、いつもより小さな声で話す父と母の優しい声が心地よくて、その時間がずっと続いて欲しかった。少しでも二人と一緒にいられる時間が嬉しかったから。
小さい頃からおしゃべりな私は、寝る前もいつまでも二人とおしゃべりがしたくて、でも大人の二人はとても疲れていてすぐ寝ちゃうからそれが寂しくて、「いい加減寝なさい」と怒られてしょんぼりすることも多かった。
だから日曜日の朝のその時間が私にとってどれだけ幸せな時間だったかをふと思い出した。
でも私が起きちゃうと二人が起き始めちゃうのを知ってたから、話に混ざれなくてもよかった(多分いつもたまたまそうだっただけ)と思っていたけど、きっと一緒に私も話がしたかったんだろうなとこれを書きながら思った。
大人になった今、大好きな人との朝のおしゃべりの時間が本当に幸せで、まだ眠いはずなのに私が喋りかけるからお話を聞いてくれているんだと思うけど、そんな日常が「当たり前に」なっていくことに違和感を感じて立ち止まってみた。
人間だから不満が出ることも不安になることもあるけれど、人のことをとやかくいう前に、私は人に何かをいう資格は果たしてあるのだろうかと、そんな自分の器の小ささにがっかりする日もある。もちろん向き合うことも夫婦としてはとても必要なことだけど。
私たち人間が忘れてしまいがちなのは「自分勝手に自分の都合で何かを愛している」ということ。
特にその対象が人間であれば、勝手に自分が”愛し始めたくせに”いつの間にか相手に求めたりして要求ばかりするようになる。
もちろん人間だから当たり前のことなのだけど、誰かと誰かが「愛し合えている」その「今」というタイミングが合うことは何度もいうけど奇跡なんだよね。
その奇跡を失うことも大切にすることもどちらも自分次第だから。
「人は失ってからしかその大切さには気がつけないから、大いに失ったらいい。じゃないとわからないから」
と豪語してきた。
それは「私はちゃんとわかってる」つもりだったから。
でも人間はどうしても忘れてしまう。
どうしてなんだろう・・と当たり前にある幸せになれ始めようとしていた贅沢な自分を悔みつつ、さらに戒めも込めてここに今気持ちを書き残している。
「ねえ、今日が愛する人に会える最後の日だったら、なんて声をかける?」
「今日が愛する人に会える最後の日だったら、どれだけ強く相手を抱きしめる?」
そんな質問をもし誰かと喧嘩しちゃった時は自分にかけてあげるといいよね。
そしてもうひとつ。
その質問は「私を大切にできていないな」と感じた時にも自分に聞いてみてほしい。
「もし、今日が人生最後の日だったら何を自分にしてあげる?」
「もし、明日で死ぬのなら自分にどんな気持ちを感じさせてあげたい?」
さて、みんな!
後悔する前に「自分のために」あなたにとってのその「大切を」大切にしていいんだよ。
愛を込めて/Sachiko
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