白村江の戦い 【上】
日本人の大和魂を甦らせる❤️🔥氷神です!
今回は、日本の歴史の分岐点の一つでもある「白村江」の戦いについての記事を作成いたしました
この記事を書くきっかけになったのも、こちら私の大好きなYouTubeチャンネル「結び大学」より以前、小名木先生が語られおられましたので
こちらの動画非常に興味深い動画となっておりますので、こちらの動画をご覧にもなっていただくのもオススメかと思います
こちらの動画を文字起こして記事にしてまとめて見ましたので、是非最後までご覧いただくと幸いです。
それべは本編に入っていきたいと思います!
七世紀には中国には隋という国がありました、それまでの中国は小さな国がたくさんあって、内乱状態でした、
日本としてみれば別に無視しとけばよかったという状況にあったのですが、この中国の隋という統一王朝はこれが強大な軍事大国で、周辺国をどんどん侵略をしていったんです
この隋が誕生することによって、日本は独立自存っていうものを保つのに、隋をどうもほっとくわけにはいかなかったのです!
では、隋と日本が国交を結ぶのか!?国交を結ぶ、てなった時にできるだけ有利な条件で国交を結ぶためにはどうしたらいいのか?日本はずっとこの隋の動向を見てたのです。
そして、ついにそのチャンスが訪れるのです!それは、隋が高句麗に攻め込むのです!しかしこの高句麗が滅茶苦茶強かったのです!
もともと高句麗、新羅、百済の3つの国は、神功皇后の三韓征伐の時に倭国(日本)に対する朝貢国となった国です、つまり日本の支配下にある国だったんです
ところが朝貢国というのは毎年は倭国(日本)の天皇の所に使節を送らなければならない王子を人質に日本に出さなくてはならなかったのです
しかし、高句麗が日本に使者を送ろうとすると、どうしても地政学的に日本海側を通って日本に使者を派遣するしかなかったのです
この使者を新羅が、たびたび襲うのです❗️
この使者達は倭国に朝貢するのに沢山の宝物や、宮中の女官達も沢山連れて行列になっているのを、新羅が宝物を奪う為に襲ったり、あるいは女官達を拉致してしまうのです。
毎年朝貢に使者を送らなけばならないにも関わらず、新羅に高句麗の使者が襲われるのです。
次の国王となる王子まで日本に連れたかなければいけないのに、この状況下で、安全に朝貢を行うことができない
そこで、やむを得ず高句麗には倭国(日本)から独立をするという道を選びます、日本もそれを認めます
これが非常に功を奏するわけです!
すなわち!高句麗は日本の保護下にあったということは、何かあったら日本に助けてもらえわけです、
しかし独立国としてやっていくと、周辺国から責められるかもしれません
高句麗は徹底的に国民を訓練して軍事力を強化せざるを得なりませんでした、独立を守るためには強くならなければ、ならなかったんです高句麗は徹底して強くなるために努力をしました
努力して努力して本当に強くになっタイミングの時に中国に隋という国が出来上がったのです!隋は周辺国をどんどん飲み込もうとします、そして大群を高句麗に送り込みます、一気踏み潰そうとするのです
ところが、高句麗は国を強化しただけあっ、てとても強くなっていたのです!隋は度々、高句麗に大群を送るのですが、ことごとく敗退してしまうのです、
このためについに隋は、度重なる高句麗と闘いによって経済も人材も疲弊してしまってついに国が滅んでしまいました。
しかし高句麗は隋に攻め込むだけの、力は無いです、自分の国を守るのが精いっぱいだったのです、
その後、高句麗との戦いの後に隋は滅び、唐という国が興ったのです!
唐も周辺国に対してどんどん侵略の手を伸ばして、いこうとしますが唐の前の隋は、高句麗との戦いで散々負けて疲れ果てて国が滅びてしまいました
では、唐は高句麗に対してどうするのか?隋と同じことを繰り返したら、唐の様に滅んでしまうわけです。
そこで登場するのは、遠交近攻戦略です、遠くの敵と結んで挟み撃ちにする作戦です、すると唐から見たときに高句麗の向こう側にある国は、新羅と百済があります、
2つの国を見た時に百済はもう完全に日本側なんです、百済は100と済と書いて「百済」というふうに読みますが、百は大和言葉や訓読みしたら桃と読みます済は「なる」って読みます
という事はモモがナルなんです、イザナギの神話中にあります、黄泉の国から帰ってくるという時に桃のみを3つ投げる事によって黄泉の国1500の軍団を跳ね返えす時に
助けてくれた桃の木がなっている、村人の長(おさ)にオオカムヅミノミコトという名前を授けるシーンがありますが、以来そこは桃がなる土地いう事で、そこには日本の一部として1つの独立国があったんです、それが百済です
ところで、百済を完全には日本の一部としなかった理由、新羅を独立国にした理由高句麗を独立国にした理由っていうのがちゃんとあるんです!
高句麗や新羅がそれぞれ独立国になっていったのではなく!朝鮮半島に独立国を3つ置いて置く事によって、高句麗の北側には遊牧民がいるわけです
中国側には戦争好きの侵略好きの連中がいます!戦争ばかりやっていると必ず敗残兵が出てきます!この敗残兵が食い物を求めて日本にやって来ようとするわけです!
唐の敗残兵が流れ込んできます、これを全部は倭国(日本)の兵で対処するのは凄く負担になります
朝鮮半島の地元に人々が住んでるんのならば地元の人たちがちゃんと団結して国をつくって自分たちの国を自分たちで守る、悪い連中は入ってこないようにする、という風にするのが一番良いんです
だから政治的に活、制作的に倭国(日本)が援助する事によって、この3つの国か出来上がったんです、その中に高句麗は独立自尊の道を選んで行く流れがありました
そこに唐が出来上がり唐からすると百済は完全に日本べったりです、しかし新羅っていうのはとにかく強盗ばっかりやっていて、百済にはたびたび攻め込むは、倭国の直轄にもちょっかい出す
とにかく隙あらば狙ってくる、しかも朝貢使節というものを、本来であるならば毎年は倭国に出さなくちゃいけないのに、新羅はしょっちゅうサボるのです、これは日本書紀で、雄略天皇の言葉で「狼の子のように人に従わない」とも書かれてます
その様な状況にあったという事は唐から見たときに高句麗を挟みにするのにはどこで結ぶべきかといううと!
新羅になるわけです!
新羅と仲良くして、新羅自身も前々から「百済のこと欲しい欲しい」と言ってましたから
唐は新羅の王様に投げかけます!
唐:「新羅の王よ!任せてください家の軍隊で百済ぐらいだったらも一気に踏み潰してあげますよ!そしたら百済の分まで全部新羅の領土になるでしょ?」
新羅王様:「そうなの?ウチが攻めなくても、あんたの所でやってくれるの?それ面白いじゃん!やって!」
唐:「わかりました任せてください」
ということで!多くの一般的に間違えなんですが、新羅が百済に攻め込んで百済が滅んだのではなく
唐が新羅に兵を送って唐の軍隊が、百済に攻め込んで百済が滅んだんです
新羅の軍隊の鎧と、唐の軍隊の鎧というのは兜の形が違うです、違いというのはちゃんと絵にも書かれて残っています、唐の軍隊の兜は棒が立って先直からこう布が出でてる
新羅の軍隊というのは棒のてっぺんからいきなり紐みたいのが出てる、そのような形になってます
要するに鎧の上が棒あるのかないのかという違いなんですけがど百済にに攻め込んだ連中は
皆棒があったので新羅の名前で唐が出した兵隊が百済 に 攻め込んだんです
はい!ややこしいですね(^^;…
しかし!これで百済が無くなってしまいます
そして百済の王様のセガレ、すなわち王子にが「扶余豊璋(ふよほうしょう)」と言いますこの王子は日本にいました日本に王子として人質として日本にいたのです
自分が人質として日本にいるのは万一事があった場合は倭国が助けてくれるその約束の本、百済は毎年朝貢使節を送っていたわけです、自分はこうして人質としてきてる!現に自分の国が滅んでしまった
扶余豊璋(ふよほうしょう)は頼み込みますなんとかしてください!
お願いしますよ!
だってそのために私は人質としてきてるんです!
これを聞いた中大兄皇子!「大兄皇子」というのはこれ長男です、中大兄皇子っていうのが次男です!
という事で長男坊ではなくて、次男坊の中大兄皇子が次に天皇となるいうこの当時皇太子の地位にあったわけなんでが扶余豊璋が中大兄皇子のもとに近づきまして何度か助けて下さいと百済救援具を起こしてください自分たちもも勇敢に戦いますから
言ってくるわけです、そこで中大兄皇子が中心となって百済救援軍というものを編成しておよそ4万の兵力を日本からこの朝鮮半島に送りこみます、当時の人口からすると4万の兵力っていうのは
現在の日本で言うならばおよそ100万人の若い兵隊さんを送り込んだようなもの100万人規模です!現代の小学校とか中学校の1学年の総人口がだいたい100万人です
100万人ということは半分が男の子半分が女の子です!つまりは2学年ぐらい男の子が全員、朝鮮半島に渡って戦い抜いたようなもんなんです!どれだけ大きな戦だったかというのは想像がつくと思います
そして百済救援軍を起こしておおよそ半島で3年間戦う、そこで戦った相手が何処と戦ったのか?教科書などには、新羅と戦った記されていますが
実は新羅ではないのです…
続く…
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