私はなぜ「事物起源探究家」を名乗るようになったのか【事物起源探究創刊号】
※松永英明個人誌『事物起源探究 創刊号』(2010年5月)より。
もともと私は小さなころから、ものごとの起源を知るのが好きだった。というのは、奈良県の法隆寺のある街で生まれ育ったという環境もあるかもしれない。千数百年の歴史を有する神社やお寺が周囲にあり、しかも「かつて都が近くにあったが、とっくの昔に滅んでしまって今は単なる田舎」みたいな環境である。友達と一緒に駆け上って遊んだ小山が実は藤ノ木古墳だったというのも嘘のような実話だ。
私が住んでいたのは、住所表示変更前は斑鳩町龍田追手(おうて)という地名だった。龍田川に近く、溜池がある場所だったが、実は追手という地名は追手門に由来する。山陣屋という小さな城があって、家(小さな長屋の借家だったが)の裏の池はそのお堀の名残だとのことだった。そういうところで生まれ育ったことによって、「これはどれくらい古いんだろう」「どういう由緒があるんだろう」と常に考える癖がついた可能性はあるかもしれない。
私の父親は建築家だった。工業高校で大林組に入り、結婚と同時に独立したのだが、家には建築雑誌などが並んでいた。建築雑誌はたいていサイズが大きく、私にとっては面白い写真集のようなものだったが、その中に興味を惹く本があった。
大阪建設業協会『建築もののはじめ考』新建築社、一九七三。割栗石、煉瓦、左官工事、ガラス製造、鉄の建築、紙障子と板戸、風呂、水洗便器……。大阪建設業協会の会報に連載されたコラムをまとめたものだ。「もののはじめ」という言葉に私は強く惹かれ、手にとって興味深く眺めた記憶がある。
私の考え方に大きく影響を与えた人物が安本美典氏だ。小学校のころ、安本氏の邪馬台国論や日本語の起源論について読みふけった。当時はまだ難しいところも多かったが、私の日本建国史や日本語の系統論の基本は安本説に大きく影響されている。日本人は(言い換えれば自分は、そして人類は)どこからやってきたのか……。そんな遠大なテーマに思いを馳せるのは楽しいことだった。
しかし、安本説を知るということは、別の起源説を主張する人の存在を知ることでもあった。たとえば、言語学会においては重鎮たる大野晋氏の「日本語・タミル語起源説」は、安本氏の統計学を使った方法によってこてんぱんに否定されていた。また、安本氏は『邪馬台国はなかった』で一時流行していた古田武彦氏のいわゆる「古田史学」(北九州王朝説)に徹底反論している。
ものごとの起源・由来については、異説がつきものだ。異説があるという程度であればよいのだが、地方の伝承などでは諸説入り乱れ、宣伝しやすい説が無批判に採用される傾向もある。修学旅行などで地域の「昔話」の本などを買うのが決まりだった私にとって、この矛盾に満ちた状態はかなり気持ちの悪いものだった。
誰かが根拠もなく言い始めた話が「○○という説もある」として併記される。それがやがて「○○といわれている」「○○だそうだ」という形で、あたかも正当な起源や由緒であるかのように語られていく。そんないい加減さを目の当たりにして、私は「では本当はどうなのだろうか」と考えるようになっていった。
本当のところを知りたい。その思いは次第に「できる限り一次情報に近いところにさかのぼっていきたい」という思いにつながっていった。だれかが解釈し、だれかがわかりやすく説明し、だれかがまとめ直したものは、必ずもとのものとズレ・違いが生れてくる。そこまで調べるのは面倒だと考える人も多いようではあるが、そこがすっきりしないと気持ちが悪い。
玄奘三蔵が「中国に伝わっている仏典は正確に訳されているのか」という疑問から、国法を犯してインドまで行って経典を手に入れてきたのも、私にはよくわかる。そうして私は「調べもの」にはまっていくこととなった。
東京に住むようになって、五色不動という言葉を知った。いや、言葉自体は荒俣宏の本で読んでいた。江戸の霊的建築に関わったという大僧正天海(慈眼大師)が「江戸の市街を密教の力で封じ」たのが江戸五色不動、すなわち目黒不動・目赤不動・目白不動・目青不動・目黄不動だ、と荒俣宏は語る(『風水先生地相占術の驚異』集英社文庫)。その五色不動に行こうと思えば行ける距離に住むようになり、話題にも出るようになったので興味を持ったのだった。
ところが、調べ始めてみるとこれが厄介だった。荒俣氏の密教説だけではなく、陰陽五行説など各種様々な由来が述べられているのだ。そこで徹底的に調べることにした。それをまとめてウェブで発表したのが『まぼろしの五色不動という小論である。
http//machi.monokatari.jp/author/fudou.php
調べてみたところ、江戸時代初期にその存在が確認できるのは目黒不動、目白不動、目赤不動の三つのみ。目青下動も目黄不動も、明治以降になってようやく存在が確認できる。五色不動という言葉自体も大正初期に生まれたものと思われ、すなわち五色不動が勢揃いしてから百年しか経っていないというのが事実であった。
となると、徳川二代(家康・秀忠・家光)に仕えた天海僧正が五色不動を配置したということは絶対にありえないということになる。
では、天海が行なったという事蹟の中に、事実と虚妄が入り交じっているということになる。江戸城の北東の上野の丘を比叡山に見立てて東叡山寛永寺を建て、麓の不忍池を琵琶湖に見立て、さらに清水寺も模して建てた、というのは事実。天海の創唱した山王一実神道も確かに存在する。しかし、五色不動にはまったくタッチしていなかった。
なぜそんな伝説が生まれたのか……そのあたりまで書き足して、最新情報でまとめる『まぼろしの五色不動二〇一〇』を電子書籍として出版すべく執筆中である。それにしても、ちょっとした疑問が大きな話になってしまったものだと思う。
さらに進んで、最近の「風水」ブームを受けて「江戸は風水都市」というような言説も多く見られるが、それも問題がある(というより日本に風水は伝来したがまったく活用されていなかった)ということを調べている。また、天海僧正にはどっぷりはまってしまったので、「天海=明智光秀説は絶対に成り立たない」ことを、天海僧正の事蹟を明らかにすることで証明したいとも考えている。
このようにして事物起源を探り続けてきた。どうやら私はその事物起源を気にする度合いが他の人より強い部類に入るらしい。まあネットの世界では他人の説の丸写しやうろ覚え説の披露がまかり通る部分も大きいが、いちいち一次資料や原典や発端にさかのぼろうという労力をかけようとするのは一部の好事家のみということかもしれない。そんなわけで、私のブログでは「そもそもこれはどういう起源があるのか」ということを調べることが多くなっていき、それをまとめるウィキも自前で設置するようになっていった。
そんな中で「@」の由来・起源について調べてまとめたことがあった。今はメールの区切り記号として、また「atどこそこ」という意味で使われることが普通になった「@」だが、世界各地で呼び方も違う。日本の「アットマーク」という呼び方自体がかなりマイナーな部類に属する。そこで一歩踏み込んで調べてみたのだった。それがやがて『R25』のライターさんの目にとまった。そこで情報を提供したところ、二○○八年六月六日号で記事となり、またそれがきっかけとなって同年十二月二十日TBSラジオ「ナイスQ編集部」(R25.jp)にゲスト出演して「@」についてコメントすることとなったのだった。
最初はどこかで取材録音したものを使う、ということだったのだが、いろいろあってTBSのスタジオで本収録に参加することになった。そこで名刺を刷り増ししなければならなかったのだが、どうも単に「ライター」というだけでは逆にこういう場合わかりにくい。「ものごとの起源とかに詳しいライター」というのもそれがどうしたという感じなので、肩書きをつけることにした。○○研究家などというのはなべて自称であるから、大げさすぎず、ダイレクトに情報を伝える肩書きを考えようと思った。
そこで「文士・事物起源探究家」という肩書きを付けたのである。「事物起源」という言葉は実際に書籍でも使われているし、モノだけでなくコト(つまり風習や思想なども含めて)の起源を探っているという意味では、カバーする範囲の広い言葉だと感じたのだ。
収録日は二○○八年十一月二十七日だったので、この日が「事物起源探究家」という肩書きの発祥の日ということになる。ちなみに、生で間近で見る加藤夏希はとにかく最高だった。加藤夏希は古地図が大好きだそうで、それでちょっと話が盛り上がったりもした。
ともあれ、こうして私は「事物起源探究家」となったのである。
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