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重野安繹と弟子・岩崎弥之助(後編)

このまま寒くなるのかと思ったら案外、気温がまた高くなったので早よ大掃除を終わらせねば…(毎年言ってるなぁ…)

昨日書いた通り、重野は「とにかく史料と照合して事実確認第一」の人でした。
ある程度史実の確認はしてるけど、こんな推測ばっか入れて書いてる私、そのうち阿木名集落の寺子屋跡の前地通ったら何もないところで車パンクしたりしそうです。
ちなみに重野の名前は挙がってないけど東大史料編纂所の本郷教授の出演されてるポッドキャスト聴くと、当時がどんなんだったか分かりやすいです↓

編纂手法をどうするかでゴタゴタしまくって肝心の編纂事業はなかなか進まず、その後重野は明治25年(1892)に帝大を辞職し、修史事業も中止となります。

が、ここで諦めるような人が大英帝国に戦後交渉で粘り勝ちするはずがない。諦めたらそこで歴史考証は終了ですよ、と考えたかどうかは定かではないですが重野はここからかつての弟子に師匠風を吹かします。

明治26年(1893)、岩崎弥之助はやっと三菱を立て直して三菱合資会社を設立し、兄・弥太郎の長男である久弥に総帥の座を譲って相談役につきます。
この頃にはもはや弥太郎が一代で築いた海運事業がメイン事業ではなく、鉱山事業・造船や地所、金融業、物流など現在まで続く三菱グループの事業基盤を弥之助の采配で築いていました。

それから明治41年(1908)に亡くなるまで、弥之助は書画や茶道具・刀剣類などの文化財や古典籍をとにかく集めまくって静嘉堂文庫を自邸内に設け、その初代文庫長として師匠である重野を迎えます。

収集の理由としては「急速に西洋文明を取り入れ欧米化していく当時の国内の風潮に危機感を覚えた」ということもあるようですが、私は、重野がひたすら「富む者は歴史的な文化財を守る義務があるぞ」と弥之助をけしかけたりもあったんじゃないのかなぁ…と思いもします。弥之助の趣味だけであれば大陸側の史料まで保存しようと手を広げなかっただろうし。

古い本は放置されたら朽ちます。虫にもガンガン食われます。
特に重野は遠島中に鼎氏の、当時も相当に貴重だった漢書のコレクションでその朽ちていく惨状を目の当たりにしていたんではないかと。
約160年後の現在、その蔵書の現物は全く島に残っていないのですから。
そしておそらく、遠島中に奄美を含めた南西諸島の島々と宋・元時代に地理的条件から発生した国際史にも関心を持っただろうと(ここが、ワンダーアマミvol.6とのつながりです)

だからこそ帝大教授時代に国の権威を借りてガンガン史料を編纂所に集め、辞職後は弟子である弥之助の財力により三菱の庇護の下で、我が国の歴史的史料も、関連する中国大陸の宋代・元代の史料も、その時その時の政変に巻き込まれて散乱・消失しないよう、静嘉堂文庫に集め続けたのではないかと思うのです。

平安末期から現代に至るまでの歴史を考証する事が可能になるのは、もっとずっと後の世代になるだろうと踏まえた上で、そのために貴重な史料を集めまくったのではないか?と思いました。

そして岩崎弥之助・久弥・小弥太と、三菱財閥において文化財保護の重要性を代々つないだだけではありません。
縁戚となった大久保家(大久保利通の長男に重野は親戚からの養女を嫁がせている)においても利通の孫で当主だった大久保利謙氏が、重野が提唱した実証主義を尊重し、重野の遺した文書研究や自らのルーツである大久保利通公関連の資料を国会図書館の憲政資料室に提供することで、明治維新期の資料は数多く保存されることとなりました。

重野はガラスの塔の中の出世競争では敗北者であったかもしれませんが、「史料」も「史料を重視する人材」も両方、後世に遺していくことには成功したと言えるのではないでしょうか。

我々は現在、教科書で当たり前のように「我が国の歴史」を学ぶことが出来ます。
ですが、その陰には重野安繹やその趣旨に賛同して史料保存に協力してきた弥之助のような人たちがいればこそ。
これは国史だけではなく郷土史にも共通して言えることです。だから私は奄美の歴史についても「殆ど史料が残ってないし」と諦めるのではなく、重野たちのように歴史を重んじる人たちが遺してくれた他の地域の歴史とのすり合わせなどにより、もっと多くの事柄が判明し、次の百年、二百年、五百年後のシマッチュへと続いていくことを願っています。

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