見出し画像

自分が造った世界でもあるまいし解らないことだらけに決まっているじゃないか

「正解が解らない」ことのほうが、むしろ多いというか、実はそういうものに、四方囲まれて我々は生きているんだろうなあ。

ついつい、「全部知った気」「あらかた解っているつもり」になりがちだけど。

で、また、そういうふうに「当然」っていうようにものごとを決めつけるほうが、「迷い」がいずれはなくなっていきもするものだから、そりゃあ安定して落ち着きもするのだけど、
でも現実世界には、「当然」なんてものは、実はほとんどないのだろう。――すべてが「迷い」でできている、と言ってもいいくらいに。

画像5

そう考えた時点で。
「当然」をいうものをいちいち疑ってかかるみたいになってしまうし、また、その「迷い」の不安定状態を、――つまり、「解らない」「定まっていない」という「揺れ続けている地面」を、――常に受け入れなければならなくなるのだが。

しかし、その「揺れ続ける現実」に、耐えて立ち続けていられるような、そんな「胆力」を鍛えることこそが、本当の意味での「現実を生きる」ということなのかもしれない、と、私はこの頃思うようになったのである。

――なんていうふうに考えだしたこれは、自分が、「何か単一の事柄を信じて突き進む」タイプではなくなったから、という、ただただそれだけのことなのかもしれないが。

画像1
画像2

何なら、自分が、信じ続けてきたことも、あるいは、新たに一度見つけた「真実」と思えたことすらも、ずっと、いちいち、疑い続けようと、私は思っている。――そのほうが面白そうだ、なんていうふうにもまた、思ってしまったのである。

……て、書くと、ちょっと重たく深刻な感じにとられてしまうかもしれないが。
な~んも、信じないよ~ん。
ぜ~んぶ、疑ってかかるよ~ん。
……という、おちゃらけた感じなので、心配ご無用なのである。
(かえって心配という話も。笑)
(繰り返しますが、「そのほうが面白そうだから」という、これが一番の理由です。)

時には「周りが見えなくなるくらい一つのことを信じる」みたいなのが、功を奏することもあるでしょうに。――それは重々承知しているのだが。
また、「騙されきる」(我ながら変な造語だが)という幸せもまたあるのだということも、それもまた解ってはいるのだけれど。

――それでも。
「そういうのは好きじゃない」に、自分の場合はなったんでしょう。

あるいは。
「100%信じ切る」から「騙される」のである。
さすれば「100%疑ってかかる」のもまた、同様の「どんでん返し」が起こる可能性を孕む。
とかく「100%完全」なんてないのに、安直に「どちらか」に、「片づけたがる」のがいけないのだというようにも思う。

画像6

なるべく、「本当」か、「少しでも本当に近いところ」を、常に「目指してはいたい」のである。――となるとまあ、基本的に「ずーっと疑ってかかる」姿勢でそれを行うわけだから、永遠に「辿り着きはしない」構図になるんですけどね、これ。
でも、たとえ延々と辿り着けなくても、言い換えればそれは、「探し続けていたい」、ということなのだと思う。
つまり、そういう「常に探し続ける」姿勢とかものの捉え方や考え方のほうを、これからの自分の人生には採用したいきたい、というそれだけのことなのである。――迷い続けても、揺れ続けていても、かまわないから。
(「誰も何も信じ切らない」って、もしかすると、自分みたいな「孤独耐性が強い」人間だからこそできることかもしれませんけどね。だから、良い子の皆さんには、真似することをあまりお勧めはいたしませんです、ハイ。笑)

画像6

※あ、余談ですが、したがって例えば神様も基本的には信じないけれど、神様仏様を信じている人の心根が好きだし、あと、こういう神社とか寺とか教会とかは、場所として大好きなので、お参りしたりお祈りしたりはしますけどね。気持ちが清々するからね。そんな感じです。


そして、そのせいで、「この世のすべてをどこかでずっと薄っすら疑ったまま終える人生」に、たとえなったとしても、そっちのほうを自分は多分「好き」になったのだ。
(ので、結局これは、どっちが「良い」「悪い」の話ではないのです。)

「疑り深い」人間は、不幸かもしれない、とは、思う。

しかし、私は、「そういう不幸なら悪くないんじゃないの?」と、思えてしまう人間に、うっかりなってしまったのである。

画像4

※念の為の追記。
この記事では、「こういう私の姿勢こそが正しい」とか「疑いもせずあらゆることをひたすら信じ切るのは間違っている」とかそういうことを言おうとしているのではありません。(何か今流行りの具体的な「ある方面」に誤解されるといやなので。……この記事で私は何も「具体的にこれを疑え」とかそもそも書いてないし、別に全くそういうのを想定とか暗示とかしようとしてません。)どこまでも「私個人の考え方」「私個人の好み」の問題で、「これからはこういうやり方で物事を見てみたいものだな」というあくまで「個人的指針」を今回は書いてみたまでです。また「役目」とか感じて「自分の思い込みで勝手に背負い込む」みたいな考え方もまた、そもそも自分は好きじゃない。(他人様がやっている分には何も気にならないが、自分ではそういうのはできない、という意味で。)だってそれって「信じる」態勢じゃないとできないし。
常に基本は自分が好きで勝手にやっていたいし、とどのつまりは、自分以外の各々の人々にも、なるべく自由に勝手にしていて欲しい。
――そう、そもそも、私は人に強制されたり決めつけられたりするのが嫌いだし、(何ならそういうことをしようとする人を自分はまず真っ先に疑ってかかりがちだし、笑)自由に一個人の判断で一瞬信じて、でも自由にそこをまた一個人の判断で疑い出すみたいに「不安定設定」にしたいだけというか、なので逆に、自分自身が、誰かに強制するのも、誰かのやり方・考え方を一方的に良いだの悪いだの決めつけるのも、したくないのです。
また「〇〇説」とか「△△論」とかそういうもので「徒党を組む」感じもまた苦手です。(これもまた、今回の内容が「そっち系」に誤解されると嫌なので。……誤解されないとは思うけど。笑)その人が、何を信じ何を疑おうと、それは自由だし気になりませんが、しかしその「意見を一致させる」みたいなのを目的とし他人に強制というか説き伏せようとする雰囲気がそもそも自分に合わない。
ただただ、すべてのことにおいて「当然と思わない」「決めつけない」=「常に疑り深くあれ」という、「極端な、でも漠然とした個人的指針」としてふと思いついたものを、ここに思うままに書き留めただけなので、皆様は皆様で、各々の自由な物差しで、信じたり疑ったりしていただいたほうが、いろんな視点ができて、健全な世界、という気が私はしています。
……って、追記のほうが本文みたいになっちゃったじゃん。(前もどこかでやったな、こういうこと。笑)