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機嫌よくありたいが、機嫌よく見られようとは思わない

「機嫌のいい人」であろうとは、常々思っている。

が、「人から機嫌よくみられる」と、「自分自身が機嫌よくいる」は違う。

だって、「機嫌のいい人に見られた」からといって、「自分自身の機嫌がいい」とは限らないではないか。

――いやいや、別に、他人様に対して「機嫌よく見られたい」と、自分の気持ちを「作る」ことを、全否定するつもりはない。
(私もいまだにこういうの、結局はよくしているほうだと思うし。笑)
が、そればかりを中心にしてやっていると、「自分が機嫌よく」ということがどういうことかわからなくなりそうなことが、しばしば、これまでの自分にはあったのである。

自分の「本心」を機嫌よくできなきゃ、「機嫌よい」とは言えない。
ならば、機嫌の良さを、「演出」ばかりしても仕方ない。

――と、言葉にしてみると、ごくごく当たり前のことなんだけど、案外これ、うっかり蔑ろにしていることもまた多い気もするのだ。

「見せかけ」の機嫌のよさは(「見せかけ」につられて良くなる、暗示にかかる、みたいな部分はあるけれど、本来は、)自分の「本心の機嫌」のほうを、別にそこまで「根本的には」良くしてくれない。
その上、「見せかけ」というものは、自分自身の「本心」との「齟齬」を、いつの間にか生じさせたりもして、割とやっかいなことも多いと思う。(――何故か、「見せかけ」のほうを、「本心」みたいに、自分ですらも扱ってしまうことって、結構ありませんか?)(って、そうか、これが先程言った「つられてよくなる」「暗示にかかる」ってことの場合もあるのか?)
そしてもちろん周囲の人々からは、「見せかけている」ほうの機嫌が、その人の本当の機嫌だと当然解釈もされるし。

――まあ、でも。
こんなふうに「自分とまるっきりすれ違い続ける自分」って、かつてよくいた気もします、自分の中に。

また、そんな、他人様に対する「顔色うかがい」を「ずーっと常に」やっていると、「顔色を常にうかがわれたい人」が、やけに多く、その「常にうかがっている」匂いにつられて集まっても来がちである。
――自分にとってそれは、あまりうれしいことではない。


私にとっての、「機嫌のいい人であろうと、常々思っている自分」とは。

どうしたら、「心から」機嫌よくいられるだろう?と。
どういう心持ちでいれば、もっと「心から」機嫌のいい人になれるだろう?と。

「そのようなことを、常々考えている自分」なのである。