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「比較」はしても「浸食」はされないように

「人とは比べなくていい、いや、比べないほうがいいのだ」ということは、私もよく思うことではあって、なので頷ける部分も多いのだが。
――さて、はたして。
自分でこう書き出しておいてなんだが、本当に「比較」そのものが、いけないことなのだろうか?と、ふと。
だって、「比較」しないと、「参考」にもできないし、「検討」もできないではないか。
つまり、「比べること」そのものが悪いのではなく、「比べ方」がマズいのではないか?――と、こういう疑念がこのたび私には湧いて出てきたわけである。

「人とは比べないほうがいい」という言葉のその続きを書くとするなら、「その結果、悩んだり落ち込んだり自信を失ったりうらやんだり妬んだりひがんだり……と、マイナスに作用する様々な『無駄オプション』がやってきちゃって仕方ないから。」となるだろう。
――何というか、これを直截的に表現するなら、比較することにより、その比較対象に自分自身が「浸食」される感じがあるのだ。つまり、自分という存在が、比較しているだけのその対象に、削られ、削(そ)がれていく感じがするのである。
「他人の存在」に、意味もなく自らわざわざ「おもちゃにされにいく」「弄ばれにいく」――つまり、「マズいほうの比べ方」には、そんな体感があるのである。
そしてその分、意識の中での「本来の自分というものの居場所」のそのスペースは、狭くなり、窮屈になっていく、という感覚もある。――そう、最近頓につくづく感じるのは、一人の人間が持てる(時間なんかは言うまでもないけど)精神的なエネルギーにもまた、「限り」があるということで。
なので、妬みだの嫉みだのの「余計なもの」に、限られた手持ちの元々自前のエネルギーを奪われて、挙句押しのけられて「浸食」されれば、結果、「自分そのもの」のほうまでだんだん変質して「余計なもの化」していくような気もするのだ。

「いくらでも自分の好きなようにできるのだから、自分の好きなようにとりあえずはしたらいいだけ」のそんなことですら、他人様との比較から設定した基準による「良い」「悪い」のほうを真っ先にとにかく尊重し出してしまう。自分にとっての「良し悪し」を――もうそれを判断する蓄積は自分の中にそれなりにあるにもかかわらず、――何故か後回しにして何故か蔑ろにしてしまう。
もうそうなると、「他人の存在」に「自分という存在」が、「乗っ取られている」と言える状態だと思うのだ。
で、ついついそうなってしまうから、「比べないほうがいいね」という結論に、これまでは至っていたのだが、――でもこうまでなってしまっていたらそもそも、これはもう正しく「比較」とは言えないものなんじゃないかな?と、私はふと思ったわけである。

ここで改めて考えてみたいのだが。
「比較」をしているということは、その人は、どう考えても自分ではない存在なのである。
「比較対象」はもうその時点で即ちどうしたって「自分」ではない。
――間違いなく「あの人は私ではない」のに、「私があの人のようではない」ことに、何故にそこまで地団駄を踏んだり落ち込んだりする必要があるのだろう?
(まあ、その逆の「人との比較により優越感に浸る」というのもまた、ある種の無駄なことのような感じもするが。――とはいえ、もちろん優越感に浸ることによりその御本人がすご~く嬉しくなれるなら、一概に悪いこととは言えないのかもしれないが。――ただ、率直に言って、そのせいでその人の「優越部分」の輝きも傍から眺めていても半減して見えてしまうということもまたあったりもするわけで……。)
(けど、あまり自分はそういう「優越感に浸れる」機会もないし笑、そうなると他人様のことならば、とやかくここで書いても仕方ないし余計なお世話だから、今回はそっちには話は広げないでおこう。閑話休題。)

これが自分と他人ではなくて、例えば「物」と「物」との比較なら、自然と、完全に二つのものを「区別」しながら、比較できると思うのである。
つまり、比べることによって、本来ならより明確に「そっちとこっちと」と「区分」「区別」できて、で、その上で「参考」「検討」に移れるわけなのであるが。
しかし何故か、「自分と誰かを比べる」場合に限って、この「区分」「区別」が曖昧になることがあるのだ。――自分のことだからか、どこかに「比較対象と自分を同化させたい」というような期待を反映させながらそれをやってしまいがちになるからだろうか。いずれにしても、その「区別をしきれないままの比較」のせいで、本来の、正しい形での「比べる」という作業が、できなくなってしまっている気がする。

まとめると、単なる「比較」なら、大いにむしろ取り入れたほうがいいんだけど、そこからわざわざ比較対象に「浸食されにいく」ようになってしまうそのやり方は、よろしくないのではないか、と、私は感じているわけなのであるが。
――ただまあ、そうは言っても、自分と誰かとを比べると、(繰り返しになるが、)「悩んだり落ち込んだり自信を失ったり羨んだり妬んだり僻んだり……」というのはしてしまうものである。――もうそれは仕方のないところもあるだろう。だってこの比較は、「自分と誰か」との比較であって、「物と物」との比較ではないわけだから。
しかし、その際には、「私はあの人ではない」「私は私という個人である」という意識的な「区別」は、やはり必須なのだ。つまり、せっかく自分との比較という作業までするなら、それは忘れずに予め意識しておかねばならないところなのだ。
そうしないと、せっかくの「オプション」も、前述したとおりの「自分という存在」を削っていくだけの「本当に無駄でしかないもの」になってしまう。――「ねたみ」「ひがみ」はうまく変化させれば、「向上心」を燃やしたり、「創意工夫」に励んだりの原動力にも本来なり得るものだが、そのままにして放置しておいたら、単なる正真正銘の純正な「妬み」「僻み」でしかない。そんなただの「湿気っていて燃料にもすることもできない」「落ち込み材料どまりのもの」を生産するために、わざわざ「比較」という作業をする必要は絶対ないだろう。誰が喜ぶの?誰か得しますか?という話である。

勝てもしない「競争」をしたがった上に、その勝敗を「いつまでも気にしたがる」って、「自分に厳しい」のではなくて、そこ通り越してそれはもはや「どうしちゃったんですか?もしかしてアホなのですか?」である。
「自分に厳しい目を向ける」のと「自分の存在を自ら潰していく」のは、よく似てしまいがちだが、まったく別物なので、気をつけたい。

――という、今回もまた自戒のお話しでございました。

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