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「邪気」が「邪気」を呼ぶ気がするのだ

「そんなバカな」という嘘を、平気でつける神経。

人として持つべきある種の感覚(羞恥心とか、あるいはその他諸々)が、欠落しているんだろうけど。

でも、そういう人のほうが結果的にもてはやされやすい場所ってある。
――例えば政治の世界とか。
そういう人が国のトップにまで、実際、上り詰めてしまったりもするわけで。
……そうなると、平然と嘘を国営放送を使ってバラまいたりもできてしまうわけだしなあ。
……で、また更にそうなると今度は、国民総ぐるみで、「そんなバカな」な嘘に、騙されてしまったりもするわけだしなあ。(国営放送が「そのように」報道していたら、信じちゃう人は、そりゃあ多くもなりますよね。)

それにしても、この、見え透いた嘘を平気で使い人を騙す、てなことから始まり、更には、人からかすめ盗ったりとか、人を土足で踏みつけにしたりとか、そういうことを平然とできちゃう人の精神構造を想像するにつけ、思うのは。

そういう人って、基本的に「世の中を呪っている」んじゃないかなあ、ということで。

――まあ、あまりにも理不尽な目にあわされ続けると、そりゃあ、そういう精神構造になってもおかしくはないのかー、ということは、こんな私にも想像出来たりはするわけなのだが。

で、ここからは、その視点を、「自分自身」に振り向けて考えてみたいと思う。

自分自身もまた、(世の中全体とまでいかなくとも、)誰かをどこかで呪っているような精神構造でいると。

こういう「この世を呪っているようなタイプの人」に知らぬ間に同調して、その人が発する空気をどこかで好み、そういう人を支持する側に気づかぬうちにまわりがちになるような気がするのである。
つまり、そういう人のそのやり方や雰囲気に、「無意識下で」「知らぬ間に」、シンクロしちゃうというか、シンパシーを感じてしまうというか。

そして、もしそういう「この世を呪っているようなタイプの人」が結果的にもてはやされる世の中なのだとしたら、――ごく一例として挙げるだけだが、例えば行政のトップに結果として「そういう人」が選ばれてしまったりするのであれば、――世の中のそれだけ多くの人が、「そういう人」を肯定し同調しがちな何かを、どこか似ている空気を、心の奥のどこかに知らず知らずのうちに抱えて生きているということなのかもしれない。
(それは国内外を問わず。――我が国にも、「バレバレの嘘を平然とついた上にそのまま居直る」とか「耳目を集めるような公約は掲げるけどほとんど達成されることもなく、いつも口先ばかり達者」とか、そういう人はあちこちに散見されますよね、――それでも彼ら彼女らが支持され続けているのが私には不思議でならないのだが、でもまあ何かシンパシーを感じる人も多くいるのかもしれませんね。)
(あとから「そういう人なのか?!」と気づくことももちろんあり得るけど、でも「そういう人」は、トップに躍り出る前から、つまり多くの人々からの支持を増やしていき祀り上げられていくその過程の時点で既に、「そういう人間性」であったことにまず変わりはないと思うので。)
(……という、これが本日のお題です。――前置きが長くなりましたが。笑)

「隙あらば人から奪ってもいいんじゃない?」
「発信力を勝ち取ったわけだし?それに弁が立つんだもの、騙したもん勝ち、饒舌に語って口先でうまく丸め込んじゃえばよくない?」
「そうだよ?あなたは敗者で下、私が勝者で上なんだよ?――え?もちろん下にいる敗者は上にいる勝者の言う事をすべからく聞くものだよ? だって、そういう暗黙の、でも絶対的ルールなんだから、世の中ってものはさ。」
「やらなかったら、やられるだけだよ?――私も誰かにこれまでやられてきたことだから、それを別の誰かにやりかえしているだけなんですが、何か問題でも?」
「搾取?人聞き悪いなあ! 基本的に弱肉強食の世の中なんだから受け入れろよ!大人になれよ!それが嫌ならあなたも人を蹴落としてでも強者側になればいいじゃないか。」
「人って言うのは、使うものなんだよ。で、今、私は使う側で、あなたが使われる側なんだけど?理解してくれてます??」
「踏み台に出来る人は片っ端から踏み台にしていけばいいんだよ!」

と、言葉にしてみると、「そんなことに共感できるわけない」「全然理解できないし受け入れたくない」と、自分でも反応できる内容ではありつつも。

――が、しかし。
それは本当? と、そこから更に執拗に、「自問」してみる。


上記のような「酷い世界の酷い台詞」を、心のどこかで、または気づかぬうちに、部分・断片的にでも、自分は全く肯定していないと、はたして本当に言い切れるだろうか?
――下手すれば、ここまで「あからさまに」酷くさえなければ、「強者」側にまわってみたい、選べるならそっちのほうがいいかも、なんてことすら、思ってやしないだろうか??

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――そう、「世の中のそれだけ多くの人が」なんて、はじめに他人事みたいに書いたが。

正面切って相対する時には、「暴力的な」ものに対し眉をひそめる自分であるけれども。
でも、それが間接的、――つまり「あからさまでない」状態になると、少し疑わしくなってくる気がするのだ。

気づかぬふりして。
「知らず知らずのうちに」ということにして。
自分も、(あくまで数例としてだが、)「搾取」する側になっていたり、「強者」側になって「弱者」を踏み台にしていたり、――そういうことを一分もしていないと、言い切れるだろうか?(「無知ゆえに」では、済まされぬことであろう。)

そして、こうしたある意味、絶対的に力のその強弱任せの、それをあえて短絡的に表現して「暴力的な」、そんな何かは、更に探れば、まだまだ心のどこかにあったりはしないか?

そういうのが、どうしようもなく、自分の感覚やものの考え方のどこかに、いまだに、潜んでいたり、染みついていたりしていないか?

――人との、必ずしも要らない「勝敗」を、どこかでつけたがって、さすれば人の不幸を、どこかで喜んでいる自分はいないか?
――人より優位なものや、人より力を持っている部分を、自分の中に見つけて、悦に入ったりはしていないか?――それで人をどこか「上のほう」から見下ろしたりしてはいないか?
――逆に、自分より上手い事やっている誰かを、妬んだりしていないか?
――得した時は「ラッキー!」てな具合で自分の懐に躊躇なく入れるくせに、少し損しただけで、「自分から奪った犯人捜し」を始めたりはしていないか?
――利益を得られる関係性なら自分にとって「当然」と感じる割には、不利益を被る関係性に転じた途端に、その時だけその「問題点」を声高に論ってはいないか?

「それが人間というものだよ」というのは、まったくもってその通りだと思う。
でも。
それでも。
そういう「卑しさ」みたいなものを、厭う自分ではありたいと思う。

それは本当に思っている。――いや、これは別に「善人を気取りたいから」、というわけでもないのである。

「人間なんて所詮そんなもの」と、うそぶきながら直視しないようにしている、その鏡に映っているのは、「自分自身」と、「そんな自分がどうしようもなくそこに存在している世界」である。
「目を背けたくなる」ような世界が、実は自分の内側にある。――それこそが、「呪う」ということの正体のような気が、私はするのである。


「人を呪わば、穴二つ」とはよく言ったものだと常々感じているので、――つまり、そんな「呪う」精神でいると。
きっと最後には自分のもとにそれが戻ってくる気がやはりするから、(だってもともとは自分が生み出した自分の世界なわけだから、)だからそういうものを厭いたいと思うのだ。――そう、ただただ「再び外部から戻されてくるソレ」が(元は自分の中にあったものであろうとも)嫌だしコワイしメンドーだし鬱陶しいし厄介に感じる、というそれだけのことなのだ。
そして更に言えば、例えば、我々は誰しもが、死ぬ間際には必ず「弱者」になって終わるはずだ。(至極大雑把な定義ではあるが、「生活を営む上で誰かの力を必然的に借りなければならない状態」を便宜的にここでは「弱者」とさせてもらおうと思う。)(その「弱者」に転じているその期間の長短は、人によってそれぞれだろうが、――数時間の人もいれば、何年間にも渡る人もいるであろう――でも生物なら「もれなく」、この定義での「弱者」に戻って終わるはずだ。)
「世の中を呪っている人々が牛耳る」そんな世の中で、最期に弱者に戻って終わるなんて、そんなに恐ろしいことはないと私は思うし、またそして、その「呪詛を唱え続ける者たち」の声を聞きその顔色を伺いながら最期の時を迎えるなんて、そんな虚しいことはないだろうというふうにも、私は想像してしまう。
つまり「強者ってちょっと憧れるかも?」なんて一分でも思考でき得るのは、自分が「強者」側に回れる可能性が残っている間だけ、ということだ。
繰り返すが、生物である以上、人間もまた御多分に漏れず、誰しもが最期は(先程定義した意味での)「弱者」で終わるのだ、ということを、私は忘れないでおこうと思う。

また、「卑しさ」は、表情やふるまいや佇まいに、滲み出てしまうものだ。
「案外、そういうのって隠しきれないよな?」と常日頃感じる、あるいはそんな「観察」と称する「意地悪な視点」を自らが持ってしまっているなら、それを自分へとフィードバックさせることに活かせなければ、その意地の悪い視点は本当にただただ無意味な「性根の悪さ」だけでしかなくなってしまう。

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唐突であるが、
「世界を、この世の中を変える力は、はたして自分にはないのか?」
という問いがあったとする。
その答えは、イエスとも言える気もするし、しかし、そうとも言い切れないような気もまたする、というのが、今の私の思うところだ。

「微力」であることは認めざるを得ないだろう。
そういった意味で、「自分に世界は変えられる」なんて、期待はしないほうがいい。
が、しかし、「微力」は、「無力」とは違う。

『あなたがこの世で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい。』

というのは、マハトマ・ガンジーの言葉である。

確かに、他人の頭や心の中に、自分の手を突っ込んで、自分の思惑通りに変えることはできないだろうし、それをしようともしてはいけないと、私は思う。

でも、自分を自分で変えることは、どこまでも自由だ。
(――もしかすると、それが人というものに与えられた最大の自由、という気すらする。)

そして人は、そこに存在しているだけで、(僅かかもしれないが、でも必ず、)(良くも悪くも、)「誰か」に影響を与えてしまうものなのだ。――それはつまりこんな「自分」すらも、ごく断片の僅かな部分であっても、この世界に対して自ずと「全くの無影響」ではいられない、ということなのだ。

幾つか前の記事で、「自分も住んでいるはずの世界の中に、毒を撒き散らし、それを撹拌する」人の話をしたが。――それができるなら、その逆だってできるはずだ。

自分を変えること、自分から変わっていくことは、むしろ、自分にしかできないことだ。
「そこ」からしか、世界は変えられないし、世界を変えられる唯一の方法が、「そこ」にあるとも私は思っている。


自分自身が今認識しているこの世界は、ある意味、「鏡」でできているともいえる気がする。
そこには必ず、
その真ん中に、自分の姿が、その心が、既に映しこまれているはずだから、である。

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