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「自分で選んでいる」という意識がないと「不満」になるのかも

まず、今年初めの「絵空社サービスセンター」ブログから再掲。
タイトル『自分で選んでいるという意識』

選択肢は限られいたとしても(でもそれは老若男女問わずこの世のほとんどの人が同じことだと思う。望むままに無限に選択肢が用意されている人はいないよね?)、でもその中から 「今、そしてその時々でいつでも、自分で選んでいる」 という実感が、自分にとってはすごく大切なのだ。

「すべて自分で選んでいる、選んできた、選びたい」(例えばそれには、「人に選んでもらおう」という選択肢を「自分で選ぶ」というのも含まれる)という実感や気持ちこそが、 自分にとっては「生きている」ということで、「もう何も選ばなくていい」となるのは、最期――後は死を待つという時かもな、と思う。

(再掲部分は以上です。)

この世は元から、不公平だし不平等だし、理不尽なことも多いし、やはり正直者がバカを見てしまう場面も多いし、それに引き換え嘘つきは平気な顔して延々とのさばっているし、そして間違いは繰り返される上に修正されない場合も多いし、――という、こういう「現実世界」しか、私達には与えられていないし、そしてこの「現実世界」でしか私たちは生きてはいけない。
そこには「選択の余地はない」。

つまり「選べない、選べなかった」ということも確かにどうしようもなく仕方なく存在はしている。
――のであるが。
でも、「現実」というその「枠組」は確かに選べなくても、しかしその「枠組」の内側、つまり「枠内」に視点を移せば、選択肢は必ずあるし、その選択肢の中に限って言えば結局「すべては自分で選べる」し、そして実際「自分で選んでいる」のでないだろうか。

「いやいや、ちょっと待て。私の人生、人から半強制されたことを、望まないまま仕方なくやっていることも多いが?」
と、思う人もいるかもしれない。
あるいは「どうしても復讐したい人間がいたが法的にできない」なんてことがもしかするとあった人もいるかもしれない。
でも、それも「自分が望まないことをやる」「やむを得ず復讐をあきらめる」をそれぞれ自ら「選んでいる」のだと私は思うのだ。
「人(自分が自分を、も含む)または社会から責め立てられ、場合によっては法的に罰せられても、それをする」という選択肢は、善悪という観点を抜きにしてしまえば、存在自体はしていたはずだ。
「だってそんなの、どうしてもできない、できるはずがないではないか」というのは、それが結局そのまま、その人が「それを選択しなかった理由」なのだと思う。
「自分の希望を犠牲にしてでも不義理不人情なことはしたくないから」とか、「自分はやはり正しく生きるほうをとりたいから」とか、「別の選択肢のほうが条件が厳しいから」とか、よくよく考えてみると、そういった理由から、意志を持って、私達は「理不尽を受け入れる」や「不運に立ち向かう」を、「選択して」やっていると思うのだ。
つまり、ごく限られた選択肢の中からだとしても、「自分で選んでいる」のだ。
しかし、「自分で選んでいる」のに、その意識がない、あるいはその意識が薄すぎる時、人には不満が湧くのだと思う。

時々立ち止まって、「私はこの今現在を、自分で選んでここにいる」と、意識し直すことは、「不満」に飲まれないためには、わりと大事なことなのではないかと思う。


……と、こんなことをまた改めて持ち出したのはですね、昨日の記事の最後に、

「不満」はその多くが、自分からの一種の「アラーム」だと思う。
「どうやったらその不満が出ないか、出てしまったものは消えていくか」の方向で、まず自ら動くなり考えるなりを、その時に多少面倒くさかろうと、我々はするべきなのだ。

と書いたからなのです。
書いては見たが、しかしそもそもの「不満は何故出るか」について、もう少し書き足さないと、提案投げっぱなしの言葉足らずでは?と思って、本日、以前の記事から引用して、補足もかねて書いてみた次第です。