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「気遣い」なのか「対人恐怖」なのか

昔むかしの大むかしの自分の話。

「その頃の自分」がしていた、
人への「気遣い」だと思っていたことって、
もしかすると、単に
人を「おそれていた」だけのことだったのかもしれない。

「悪く思われたくない」「嫌われたくない」とか
「気がきかない使い勝手の悪い奴と評価されたくない」、とか。
(――まあ、それが「おそれ」じゃなければ、
個々の好きにするのがよろしいことだろうが、)
しかし、そんなふうに「おそれる」こと自体、
もしかすると、少々妙なことではないだろうか。
――何故、
「対人」で、「おそれ」を抱かねばならないのか??

もともと、微妙なその差異まで含めて考えれば、
「正しい」と「間違っている」は人の数だけあるものだ。
「それならそんなのは、
目の前のその人のそれにとりあえず合わせればいい」?
――そういうものだろうか?

そうなると、
正しさの「自分としての」基準はどこへ?
「自分の中にある正しさ」はどうなる?
それを蔑ろにしてひたすら人に合わせるということは、
「ダブルスタンダード」ならぬ
「人の数だけスタンダード」にもなり得てしまう。
(「自分の考えを曲げるな!変えてはならない!」ということではありません。
考えは、どんどん曲げて変えていったほうがいいくらいだと私は思いますが、今回言っているのは「自分の考えは無視して何でもかんでも迎合する」みたいなことを指しています。)

「おそれ」から、
「他人様の顔色窺いとしての気遣い」を
絶対事項にして標準装備として動いていると、
結局、「根無し草」というか、
「人によって基準をコロコロ変える人」にも
なりかねないのではないだろうか?

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そもそも。

「気遣い」とは?
「思いやり」とは?
「やさしさ」とは?

たとえば、
「人に嫌われぬため」「人の気を悪くさせないため」のそれらは、
「気遣い」とか「思いやり」とか「やさしさ」とか
本当に言えるものだろうか?
――いや、そういうのはあってもいいけど、
そればかりが「気遣い」「思いやり」「やさしさ」ではないよな?
ということであり。
――かつての自分は、概して「そればっかり」だったのでは?
そのせいでひずんでしまった感覚があるのでは?
と、ふと思ったのである。

逆に言えば、
そういう目的ではない
――つまり正真正銘「ただそれだけ」の、
「気遣い」「思いやり」「やさしさ」を、
かつての私は、どれほど持てていただろうか?
ということである。

そして、今、あるいはこれから、
「正真正銘」と自分で言えるそれらを、
持つことはできるのだろうか?