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この世界は「自分が思い描いている世界」でしかない

この企画では、14年前の自分の文章を読み直して考え方の変化などを観察しております。
本日は2007年10月11日の、
タイトル『限られた24時間の「時間割」』から、まずは全文掲出。


「情報」=「世界」ではない、といってはみたものの。

「情報だけの世界」に生きている人にとってみれば、
上記の「=」は、成り立ってしまうのか?

たとえば。
起きている時間のほとんどをネット上で過ごす人にとっての
「世界」とは、なんだろうか。

世間一般の真実ではなく、その人にとっての真実としては。


また、たとえば。
この宇宙に、もうひとつ、
地球とほとんど同じ条件の星が存在したとします。
想像ではなく、実際に本当にあるとして。
しかし、私達はその星の存在を全く知らない。
未確認どころか、未知の状態。
という事は、その星は、私たちの中では、未だ「存在外」であります。
(「単に想像しているだけ」の状態では、その星は、例えばドラえもんなどと変わらない「想像上の存在」枠の中になる。つまり実在している事にならない。たとえ本当は実在していたとしても。)

実際には存在するのに、自分の事実の中では、存在しない。

実際の真実と。

知らないことによって生じる個人の中の真実と。

――どちらも、きちんと、真実であることに変わりはないのだと思います。

そうなると。
世界は、ただ単に、それぞれの人の「時間割」で
構成されているといえなくもないかもしれない。
どんなふうに、どの場所で、どれくらい時間を過ごしているか。
自分を存在させているか。
それによって、自ら認知できる世界は変わってくるのだから。

なので、本当に本当の「世界」地図とは、
人それぞれ各々の中にあり、実に様々なもの……なのかも。


未開の山奥に、海を知らずに暮らす人々。
その人たちの世界には、海なんて、存在しない。

で。
閉ざされた部屋の奥で、外の空気を吸わずに暮らす人々。
その人たちの意識の中では、外の世界なんて、存在しない。
いや、存在したとしても、「話でしか聞いたことがない」とか?
――というのは余程、大袈裟なパターンだろうが、
でも、これを軽くした状態なら、
いくらでも、発生し得るのではないかと思うのだ。


確かに、ネットで得られる情報は、ほぼほぼ無限だ。
しかし、生身の時間は、限られていて、
一日は、24時間以上に延びていったりはしないし、
人の一生も、「いや、必要だから延ばしてよ。」というわけにはいかない。
だから例えば、
ネットでの情報収集に時間を費やせば費やすほど、それと引き換えに、
「ネット以外のところ」から何かを得る機会は、減っていく、ともいえる。


本当のところ、私達は何をとりたいんだろう。
「限りある」時間の中で、
「限られてしまう」世界の中で、
どのように、何を、そこに構成したいんだろう。

「自分の世界」地図を、どのように「自ら描くか」の意識が、
今の時代は、必要なのかもしれない。

(再掲部分はここまで。)


つまり実は「自分のいる世界」とは、「自分が認識している世界」あるいは「自分が思い描いた世界」でしかないのである。

そして、「自分が既に知っている情報を基にしてしか、自分はこの世界をとらえることができない、理解することができない」とそう考えるなら、世界は実に自分の知らないことだらけ、その大半は自分からは隠されているんだよなあ、ともまた思う。
でも、実感としては、「自分は世界の『全体を』見つめて捉えて日々生きている」という人が多いのではないだろうか。――まあ、自分もそういう感覚なんですが。
でもこの、ある種の「勘違い」は、自然な感覚だろうという気もします。

そういえば、たまたまですが、本日上記再掲した14年前に書いていたものが、昨日書いた記事内のこの記述部分の、うまいこと補足みたいになっておりました。

この「自分の外側にある世界」は結局、「まず自分自身で見て感じて識る世界」としてしかどうしたって認識できないわけだから、まず自分が変われば、世界の見え方は変わるし、それにともない事実上世界自体も変わってしまう、とも言える、かもしれないわけである。――だって、自分が自意識を伴って存在できる世界は、自分が認識している世界にしかないのだから。

つまりそれを別の角度から言い換えれば、自分の見方、識り方、感じ方が歪み始めたら、世界もそのまま歪み始める、というふうなことにもなるわけである。――その場合には、まるっきり、「不正確な世界」の中に自分を置く羽目になる、ということだ。


……うむ。ちょうどよかったんですけど、ねえ。
14年経っても、あんまり考えることもその内容も、変わっていない自分なのでありました。
――成長がないですね。(笑)