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「無力感」「微力感」
「無力感」とは、
それまで「自分にも幾許かの力くらいはある」
と、思い込んでいた、
その「勘違い」に気づく事だから、
良いものである。
「無力感」は、気持ちを、
「原点」「スタートライン」に
戻して「くれる」ものでもある。
この「無力な感じ」は、
むしろこの先どこまでも
忘れてはいけないものなのだろう、
という気すらする。
特に自分みたいな性格の者は、
「人より秀でているかも?」「恵まれているかも?」と
「自己評価」してしまう、とある力により、
(それはこの世の人々の中に漲るあらゆる種類の力のうちの
たかだかほんの「断片」「ひとかけら」でしかないのに、)
下手すると、どう考えても不相応の「万能感」とか持ってしまいそうで、
それが恐ろしい。
――いや、単なる「傲慢」「自惚れ」で留まるなら
他人様から「感じが悪い」とかせいぜい嘲笑されるだけだからいいのだが、
それで気づかぬうちに、
浮かれてしまって舞い上がり、冷静さを失い、
(つまりこういうふうにならない人はいいと思うのだが、
自分はすぐなってしまいそうだ、ということ。)
そのせいで、
自分が自分を見つめられる「俯瞰の視点」までもを
うっかり見当たらなくしてしまいそうで、
そういうのが、もっぱら恐ろしい。
それは「鏡のない世界」に等しい。
その世界では、自分だからこそ、自分だけが見えなくなるのだ。
――そんな自分が自分を動かし続けるのだから、
それはひたすら恐ろしいことだと、やはり私は思うのだ。
*
さて、はたして。
その無力感の「ふりだし」のその地点から、
「本当に自分は、無力なのか?」
と、自分に問いかけ続けてみようかと思う。
薄いたった一枚の紙の重さは感じられなくても。
その薄紙を、一枚一枚重ねていき、
その果てに、
ささやかながらも、あるいは一冊の本のように、
この手の中に「確かに存在するもの」を感じられたら……。
と、
それでもいつか夢見るその夢は、
ただの夢であったとしても、
けして悪いものではないはずだ、と、私は信じている。
それは、
「吹けば飛ぶような薄紙の、それも一枚ずつを、
積み重ねることしかできない。」
そんな自分を思い知りながら、
それでも見る夢のことである。