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敵認定

インターネット上で「敵」を設定して、
牙をむくみたいな行為がよく見られるが。

その「敵」、実在はしているのかもしれない。
が、牙をむいてガーッと言っている「その先には」、
その「敵」は、実はいないことが多い気がするのだ。

別の言い方をするなら、
その「ガーッ」は、
その「本来の敵」の本丸には、
実は全然届かず響かずということのほうが圧倒的に多いように見える。

何て言うか、
手近にいる自分の声がすぐ届く範囲の人々を「傷つけて」、
敵を「成敗」した「気になっている」、
(「○○した気になってしまう」というのに陥りやすいのがインターネットの難しいところです)
が、
その傷つけた人々は、実際には、敵でもなんでもなくて。

で、「元々の攻撃対象」と認識している相手には、
ほとんど何も届いていなくて、
その攻撃されるべきはずの人々は、実は痛くもかゆくもなんともない、
……みたいな、
そんなパターンが、ところどころで繰り広げられているように見える。


怒りを、無意識にでも、自分の憂さ晴らしの道具にしてしまっていないか。
――常に自問自答していきたいポイントだ。

「批判」は大事だが、それが単なる「攻撃」と化してしまっていないか。
「怒りの感情」を表出させることと「批判」とは
意識的にはっきり切り離していかんといかんな、とも思う。
(と、これは主に自戒。)
(自分はそこらへん、器用ではないと思うから。)
怒って力任せに投げつけるボールはだいたい大暴投になって、
どうも届いてほしい相手に、
届いてほしいようには届かない……みたいだから。

あと、とにかく、いかなる理由があろうとも、
人を傷つけるような物言いは控えるようにしよう。
(人のフリ見て、我がフリも直したいと思います。)
それは巡り巡っていつか自分を傷つけるかたちで
戻ってくる気もまたするし。
(「風が吹けば桶屋が」方式は「儲かる」話に限りたい。笑)

※昨日のこの記事の続きともいえるかもしれません。